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 驚愕に目を瞠るのと、風を切り裂く音が耳朶を叩くのとはほぼ同時だった。
 より強く掻き抱かれた体の内側で、内臓が逆流するようなあの独特の感覚が生じている。心臓を直接撫でられるような不快感に、シエラは声にならない悲鳴を上げた。
 耳元では、ばたばたとパルダメントゥムが盛大に翻っている。
 なにが起きているのか、冷静に考えている余裕などない。
 ただ落ちている。あの高い塔の窓から身を投げ出し――正確には投げ出され、に近いのだが――、地面へと落下しているのだという事実だけが、シエラの頭の中でしっかりと形になっていた。
 おそらく、落下時間はそう長くなかったのだろう。しかしシエラにはとてつもなく長く感じられ、どんっという軽い衝撃が走った頃には、頭は人形のようにふらついていた。
 強く閉じていた目を恐る恐る開けると、ぼやけていた視界が徐々にはっきりとし始める。

「あ……、え、あ」

 途切れそうになった意識をなんとか引き戻そうとするが、脳は展開についてくることができないらしく、なにか言おうと思っても意味のない声しか漏れてこない。
 そんなシエラを見て、エルクディアが小さく「ごめん」と呟いた。ごめんもなにも、彼は今なにをしたのだろう。震える指が、未だに彼の軍服をしっかり掴んでいる。
 まだ足が浮いている感覚が、どうにも落ち着かなかった。

「そっ、総隊長殿! シエラ様!?」

 裏返った声が降ってきた方へふらつく頭を持ち上げれば、小さく見えるオリヴィエの表情がすっかり崩れてしまっている。取り澄ましてあえて表情を消したようなそれではなく、心情そのものがすっかり露呈してしまったその顔は、大変面白いものであった。
 へにゃりと歪んだ眉毛など、騎士隊長だとは思えぬほど情けない。

「オリヴィエ! あとは任せてもいいよな? それから『総隊長』からのお願いだ。――追うなよ?」
「そんなっ……、無茶苦茶な!」
「フェリクスとオーグ師匠の教育の賜物だからな。文句があるなら二人に言ってくれ。それじゃあ頼りにしてるぞ、六番隊リーオウ、ブラント隊長?」

 塔の窓から身を乗り出しているオリヴィエは、顔を赤くさせて項垂れていた。それがわざとらしく呼ばれた敬称のせいか、憤りのせいかは分からない。
 塔内の松明に照らされた彼の赤茶けた髪が、まるで炎のように揺れて見えた。そのままずるりとへたり込んだのか、彼の姿が確認できなくなる。
 エルクディアがくすくす笑いながら歩き始めたとき、シエラはようやくそこが地面ではないことに気がついた。
 庭園はまだ下の方に見える。木々の中枝よりも少し高い位置にあるここは、塔と塔を繋ぐ連絡橋だった。両端には小さなランプの明かりが直線的に点々と続いていて、そこに道があることを示している。
 ちょうど地面と、先ほどまでいた階の中間地点に通路は渡されており、順に辿っていけば別塔を通過し、そのまま城内へと戻ることができる。
 ああ、だからあのとき、下を確認していたのか。
 それにしても、けっして低くはない高さなのによく跳ぼうと思ったものだ。
 それもシエラを抱えて落ちるのだから、足にかかる負担は相当なものだろうに。
 普段は見ることのないエルクディアの旋毛を見下ろしていることがとても不思議に思えて、シエラはくすりと笑みを零した。
 腕に腰掛けるような形で抱えられているために、その視線は普段よりもかなり高い。これは案外快適かもしれない。
 そんなことを思っていたら、急に彼が立ち止まった。

「あー……悪い、怖かったよな? ごめんな、シエラ」

 なにをいまさら。
 叱られるのを恐れる子供のような顔のエルクディアを前に、喉元までせり上がってきた言葉が笑声に変わる。

「あっはは! なんだお前、その顔! 情けなっ、ははっ!」
「え!? え、いや……そんなに笑うところか……?」
「ぷくくっ、あっははは!」

 なにがおかしいって、先ほどのオリヴィエとまったく同じ表情なのだ。しゅんと耳が垂れ下がった子犬のような顔をするいい年の男を見て、笑わない方がおかしいに決まっている。
 身を捩るほどに笑うせいで、どんどんと身体がずれていく。しっかりと軍服の肩口を掴み、自らもたれかかるようにして笑い崩れれば、エルクディアは困ったように笑った。
 最早なにがおかしいのか分からない。けれど大笑いしている自分がおかしくなって、腹筋が壊れそうなくらい笑いが止まらないのだ。
 ばしばしと背中を叩けば、大して痛くもないだろうに「痛いって」と抗議される。
 こんなところを誰かに見られたら、きっと不審者扱いされてしまうだろう。



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