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「申し訳ありませんがシエラ様、姫様の御身を狙う不届きな輩が現れるやもしれませんし、万が一にも馬が荒れるやもしれません。ここはどうか、私と同乗していただきたく思います」
「そうだぞ、シエラ。使者殿はお前が怪我したら大変だって言ってくれてるんだ。素直に甘えたらどうだ?」
エルクディアに助け舟を出すつもりでカイが口を開いたのだが、すっと向けられたシエラの視線はとても冷ややかなものだった。
げ、と頬を引きつらせ、カイが己の失言を悟ったときには、もう遅い。
凍てつく刃の眼差しがじとりとカイをねめつけ、斜に構えた彼女は傲慢とも取れる態度でふんぞり返ってみせた。
「そんなもの、無用な気遣いだ」
ばさりと髪を掻き上げるたび、蒼い糸が指の間からさらりさらりと零れ落ちていき、形容に悩む香りを放つ。
甘いようでくどくなく、すっきりとして人を惹きつける。花の香りというわけでも、香水の香りというわけでもないそれは、喩えるならば水のような香りだった。
シエラらしい、掴みどころのない香り。
とてつもなく失礼な発言をしているのだが、本人に悪気はあまりない。
「あまり」というのは多少の自覚はあるからで、大部分は彼女の中での普通の範疇内らしかった。
まったく臆することのない彼女の様子を目の当たりにし、エルクディアは驚きつつもどこか冷静に彼女の内側を眺めていた。
他人を寄せ付けない態度は、これ以上己が傷つかないためだ。
傲慢で傍若無人な態度をとっていれば、人はそれを厭う。
疎まれ、周囲に人がいなければそれ以上苦しむことはない。
冷たい言葉を紡ぎだすことによって氷の鉄壁を築き上げ、己を守ろうとする自己防衛の手段。
――ただしそれは、あくまでもエルクディアの想像上でしかない。彼女が実際どのような人物なのかは、もう少し深く付き合ってみなければ分からないのだ。
ただ、こうやって素直に感情を表せない人物を知っているからそう思っただけであって、彼女もそうだとは限らない。
辺りに気を配りつつも思案に耽るエルクディアの横で、カイも思いを巡らせていた。
いつからだったろう、と一人ごちる。
いつからだったろうか、シエラの表情から心からの笑顔が消えたのは。けらけらとその美貌にそぐわぬほどの笑い声を聞かなくなったのは、いつからだったろう。
馬の背を撫でる彼女は無表情だが、その瞳には優しさが宿っている。失くしたわけではないのに、彼女はそれを表に出そうとしなくなってしまった。
そういえば、泣き顔も見たことがないな――とカイは苦笑する。小さい頃、本当に小さい頃の彼女はよく泣きじゃくっていたが、物心ついてから――周りから、神の後継者だと期待され始めてから――は一度も涙を見せたことがない。
泣いたことがあったのかもしれないが、それをカイが知ることはなかった。
そして多分、これから先もずっと。
「カイ、どうした?」
固定観念があった。こうして眉間にしわを寄せて見上げてくるシエラは、いつも変わらずふてぶてしくて、でも真っ直ぐな心根の持ち主で、それから――
それから、そう。とても強いのだと、思っていた。
恐れられても表情一つ変えない。何があっても動じない。
そんなこと、あるはずがないのに。
「――いや、なんでもないよ」
誰よりも重い運命を背負って生まれた子供。
自分が神になるのだと聞かされ、素直にその運命を受け入れることができるのだろうか。自分の決断が世界を動かし、そして数多の命を両の手に握っているのだと理解することができるのだろうか。
けれど、彼女はそれを決意した。心を定め、己を殺してすべてを是とした。
それは強さであり、弱さでもあった。嫌だと跳ね除ける力のない、無力な子供のそれと同じなのだ。
カイの視線が湖面の月を映す。美しく透き通ったそれは、天高く浮かぶ月をも切り取ることができるが、湖面の月は雑草でさえ揺るがない微風にでさえ歪んでしまう。
決して完全なものではなく、実態はひどく儚くて脆い。
きっと、本人は気づいていないのだろうけれど。