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けれど今となってはそんなものはどうでもよかった。むしろ知ったことではないと言い切れる。
なぜだか半笑いでこちらに視線を送るエルクディアをぐいと押しのけて、シエラはオリヴィエの前に立つ。
あまりに近い距離に彼はやや足を引いたが、見下ろしてくる視線はまっすぐだ。
「……ったな」
「はい? シエラ様?」
「――っ、馬鹿で悪かったな! しかし取り逃がしたのはお前だろう! それをいつまでもねちねちと人のせいにするなど、それでも男か!」
いても不快なだけの夜会に、逃げ道を与えたのはこの国の最高権力者だ。
だからこそ、自分は庭にまで飛び出した。それに敷布だって、頼んでもないのに好奇の目が向けられるので、仕方なく被ったのだ。
それなのにどうして自分ばかりが責められようか。
憤慨するシエラにぎょっとした様子の男二人は、それぞれ違った反応を示した。一人は表情を無に近くし、もう一人は困ったように眉を下げる。
どちらがどちらであるかは、言わずとも分かるだろう。
オリヴィエは静かにシエラとの距離を開けると、聞こえる大きさのため息をついた。それが一層彼女を刺激する。
ぴくりと反応したシエラの肩を掴んだのは、案の定エルクディアだった。牙を剥いて振り払う直前に、その行動が子供じみすぎていると自覚して、なんとか踏みとどまる。
「あの敷布はシエラ様の所業でしたか」
所業。好ましくない行為を匂わすその言葉に、シエラの目に険が宿る。
暴言を吐いた相手が目の前にいて、なおかつそれが神の後継者という立場の者であったと知っても、オリヴィエは自らの発言を悔いるようなそぶりは一切見せなかった。
見本のように頭を下げ、無礼を詫びはしても、取り繕うことはない。
それは吐露した本心を覆すような真似はしないと、公言しているに等しいことだった。
ここで手のひらを返されても、それはそれで今以上に立腹していたのだろうが――シエラはそのことに気づかないふりをして、唇を尖らせる。
とはいえ非礼を詫びられてしまえば、これ以上の責め苦が浮かんでこない。
濁りがちな空気を察したのか、エルクディアが一つ手を打って淀む意識を途切れさせた。
「そこまで。ところでオリヴィエ、お前はどうしてここにいたんだ? それも、あんな格好で」
報告だけならば、あとで自室に来るなりなんなり別の手段があったはずだ。ただこの塔で調査をしていたというのなら、扉を開けた瞬間あんな光景にはならない。
オリヴィエがはっきりとした意思を持ってここに足を運び、エルクディア達が訪れるのを待っていたからこそ、あの状況に出くわした。
ならば、一体なぜだろう。エルクディアと共にいたシエラでさえ、どこに行くのかは分からなかった。
途中で誰かに行き先を告げた様子もないし、人目を避けたせいでほとんど誰ともすれ違っていない。
なぜかと尋ねられ、オリヴィエはすっと姿勢を正した。軽く頭を下げ、礼を取る。
「あの状況下で総隊長殿が移動なさる場合、シエラ様の安全確保が最優先されます。城内での安全性は五分五分。なお総隊長殿の性格上、ご自身でも状況把握をなさろうとするでしょう。安全を確保し、現状を視察するのに好適な場所は、この第二西塔以外にありませんから」
アスラナ城は、どの城よりも群を抜いて広大な敷地を要している。併設された塔の数も半端なものではなく、見た目の美しさも計算されながらあちこちに建てられていた。
その中でも西側に位置し、薔薇園を近からず遠からずの距離から一望できる塔はといえば、別名『花泉の塔』と呼ばれる第二西塔しかない。
近くにある別の塔では、窓の位置が低すぎたり高すぎたりと、薔薇園と周辺を見下ろすのに少々の不便が生じる。
確かにオリヴィエの言うとおり、安全を確保した上で状況を知ろうとするにはこの塔が最適な場所だ。
だからこそ、エルクディアはこの場所を選んだ。しかし、と彼は思う。そこまで読んで行動を起こしてくれたことは嬉しいが、なにも土下座して待たなくてもいいのではないだろうか。
もっとも、彼が待っていたのは、すでにこの場にいるだろうという予測が外れたからなのだろうが。
シエラからしてみれば、説明されてもここで彼が待機していた理由が分からない。自分の予想に相当な自信があったのか。
それとも、微苦笑を浮かべているこの男をよほど信頼しているのか。
もしもそのまま部屋に帰っていたら、彼はここでいつまで待ち続けるつもりだったのだろう。
彼も隊長という立場なら、今この時間がどれほど大切なものか重々承知しているはずだ。もう少し遅ければ、読みが外れたと判断してこの場を去ったに違いない。
――なれど。彼のその姿勢から、エルクディアに対する恐ろしいまでの信頼感が、ひしひしと伝わってくる。
言葉では説明しきれない、全幅の信頼が、第三者にさえ手に取るように分かるのだ。エルクディアのどこに、これほどまで陶酔させる力があるのかと疑問に思う。
おそらく姿かたちの問題ではない。身の内に秘めた本質が、獅子の心さえ捉えているのだろう。
考えつつ、シエラは塔の内部をざっと見回した。
彼らの会話は右から左にさらりと流し、まったく頭には入ってこない。揃いの軍服の向こう側に見えた景色に、彼女はうっすらと目を細めた。
つきり、となにかが小さな痛みを運んでくる。
これは一体なんだろう。脳裏を過ぎったのは、薄暗い薔薇園の外貌だ。
まだ開きそうにない蕾が静寂の中で身を潜める、あの風景。
痛みはシエラをなにかに導くように近づいたり、遠ざかったりしていく。
窓に近づいて外を見れば、闇の中で赤い炎が蝶の様にいくつか揺らめいていた。あれは兵達が持つ松明の明かりだろう。
塔の真下にある光に目を凝らすと、どうやら二人一組で行動しているようだった。なにを話しているのかは分からないが、互いになにかを言い合っているのがぼんやりと見て取れる。
そこでふと、シエラは動きを止めた。
なぜ彼らの様子が見えるのだろうか。この暗さ、そしてこの高さだ。
いくら月が明るく、彼らが松明を掲げているからといっても限界はあるはずだ。けれど、魔物が近くにいるときのような違和感があるわけでもなく、シエラはその不思議さに首を傾げた。
ただ単に、思っていたよりも自分の目がいいだけの話なのだろうか。昔から夜目は利く方だったから、きっとそうなのだろう。
そう結論づけはしても、どこか釈然としない。
背後で交わされている二人の会話は、最早シエラにはついていけそうにもない内容だ。知らない名前や建物の名称が次から次へと飛び交っている。
「…………会話?」
思いがけず零れた独り言を、オリヴィエが拾い上げる。
「どうなさいました、シエラ様」
「……いや。別に、なんでもない」
なんでもない。言いながらすぐに目を逸らしてしまったことを、シエラは首筋に視線を感じて後悔した。
これでは嘘だと言っているようなものだ。現にオリヴィエは、出した答えに納得していない。