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 室内はあっさりしすぎるほどものが少なかったが、場所柄を考えればこれでも十分なのだろう。
 シエラの身長ほどの本棚と、小さな机、奥には簡素な寝台がちょこんと置かれていた。
 そんな部屋の中央で、一人の男が蛙のように平伏している。肘も腰も足も、ありとあらゆる場所をこれでもかと折り曲げ、床にめり込むほどに額を擦り付けて頭を下げているその男は、オリヴィエ・ブラントに相違なかった。
 かっちりとした騎士団の軍服には汚れが目立ち、赤茶けた髪も頼りない灯りの下では漆黒に見える。顔はまったく見えないが、その声からしておおよその見当はつく。
 ちらと隣の男を見上げると、彼は口元を引きつらせて意味を成さない言葉をいくつか零していた。
 なぜオリヴィエがこの場にいるのだろうか。エルクディアが確認のように呼びかけると、彼は一層額を床に擦り付ける。

「オリヴィエ、別にそこまでする必要はない! な? だからほら、早く頭を上げろ」
「しかし、総隊長殿のご期待に沿えぬこの体たらく、なんと不甲斐ないことかっ……!」
「報告はちゃんと聞くし、始末書なら気が済むまで書いていいから。――だから今は、とにかく立て。シエラを困惑させるな」

 焦って宥める情けない声音は最初だけで、立てと告げたエルクディアの声は凛とした威厳が感じられた。その表情は力の抜けた、親しみやすい青年のものではない。
 邪魔な感情を削ぎ落とし、必要なものだけを貼り付けた総隊長のそれだ。
 人一倍忠誠心の篤いオリヴィエは、その変化を汲み取ると僅かに反応を示してゆるゆると顔を上げた。
 苦虫を噛み潰したようなその顔に、エルクディアの視線が突き刺さる。

「……御意」

 静かに応えて立ち上がったオリヴィエの肩を、エルクディアは苦笑交じりにぽんと叩いた。いつまでも扉のところにいるのも妙で、シエラは椅子を見つけて腰を下ろした。
 長身の男性が向かい合って話し込んでいる姿は、とても壮観である。ずっと見上げていると首が痛くなりそうで、彼女は適当に辺りに目をやった。
 一体この部屋は――というより、この塔は――なんのために存在しているのだろう。
 生活のためではなさそうだし、息抜きのためにしては階段がつらい。部屋の大きさに対してはいささか大きすぎる窓も、どことなく違和感を覚える。
 どうしてここにいるんだ、というエルクディアの問いかけに、オリヴィエは悔しげに歯噛みした。大きく息を吐き、彼が見てきた状況を整理して語り始める。
 薔薇園にいた不審者は、オリヴィエの姿を見るなり逃亡を図った。彼が剣を構えるより素早く後ろに跳び退り、顔を隠すよう背を向け駆け出した。
 地の利はこちらにある。
 獅子の牙があと僅かで届くというところで、相手は飛んだのだ。
 飛んだ。その言葉に、エルクディアが眉根を寄せる。
 しかしオリヴィエは小さく首を振って続けた。「飛んだのです、総隊長殿」冗談を言うような性格をしていないことは、見た目からでも想像がつく。
 エルクディアが見せた怪訝な表情からも、その読みは間違いでないのだろう。
 オリヴィエが下から掬うように斬りかかると、相手は軽業師のようにくるりと宙を舞った。
 柔らかな地面に足がつくや否や、助走もつけずに飛び上がり、木に引っかかっていた敷布(シーツ)を掴んで枝の上に降り立った。
 並の人間ではない脚力に瞠目するオリヴィエを嘲笑い、ひらひらと手を振ってその場を去ったのだと彼は言う。
 木に引っかかっていた敷布。シエラの心臓が、小さく声を上げた。

「薔薇園は即閉鎖、なお現在も周辺を捜索中です。ご来賓の皆様には万が一のため、七番隊の者が傍についております」
「ヴァーゴウか……確かに、彼女達なら不信感も威圧感も与えない。その指示は誰が?」
「アレンス隊長自らが、バレーヌ総帥に進言したと聞いております」
「ということは、もうオーグ師匠にまで話はいってるんだな? 両将軍も承知か……。明日の朝議は長引きそうだ」

 一体どんな小言を聞くはめになるのやら、とエルクディアは軽口を叩く。
 けれど、目は笑うことなく静かな光を湛えている。それが逆に不気味で、シエラは彼から視線を外して窓の外を見やった。
 ちくちくとなにかが胸をつつく。この感情の名はなんだったろうか。

「あくまでも内密に、とのことです。厳戒態勢をとっていますが、それにしても……なぜ、あのようなところに敷布が」

 あれさえなければ!
 そう悔しげに吐き捨てるオリヴィエの声に、シエラの肩が跳ね上がる。同時にエルクディアまでもが居心地悪そうに顔を背けたものだから、オリヴィエは訝って目を細めた。

「総隊長殿……? なにか、ご存知なのですか?」
「ああ、その……いや、なんでもない」
「そうですか。それならば構わないのですが。どちらにせよ、あのような失態を侵すどこぞの馬鹿を、即刻割り出さねばなりません。大方侍女の誰かが風に飛ばしたのでしょうが、女官長から直々に厳重注意をしてもらわねば」
「オリヴィエ、馬鹿はちょっと言いすぎじゃないか?」

 いきり立つオリヴィエの肩を、宥めるようにエルクディアが叩く。しかし彼はふるりと首を横に振って、力強く言った。

「いいえ! 馬鹿で十分、いえ、足りぬくらいです。いかなる理由があるにせよ、注意力散漫極まりない。愚か者の真髄、痴れ者の頂点と言えましょう」

 ふつり、とシエラの中でなにかが音を立てて切れた。今までちくちくとつつかれていた胸が、ごうっと熱く燃え上がる。
 それと同時に、先ほどまでの痛みの名を思い出した。罪悪感だ。自分が敷布を手放したせいで逃げられたのだという、そんな思いが生み出した罪悪感だったのだ。



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