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「私は……私は、お前やライナと違って、どうにもここには慣れない」

 贅沢な暮らしにも、守られる生活にも、――世界を背負う、この身にも。
 その微笑がエルクディアの胸に針を刺す。つきりつきりと小さな痛みを与え、彼はつらそうに目を細めた。
 つらいと、シエラが言ったわけではない。
 それなのになぜか、今にも彼女が泣きだしそうに思えて仕方がない。
 その目は乾ききっているというのに、なぜこんなことを思うのか彼自身もよく分からなかった。
 シエラの内側から溢れてくる感情が、エルクディアの言葉を根こそぎ奪ってしまったかのように、声が出ない。
 彼は呼吸の仕方さえ一瞬分からなくなって、不自然に二回続けて息を吸った。

 ――なにか言わなくては。
 けれど、なにを?

 分からない。それでも、エルクディアはなにかを言わなければいけないと思った。頭が、ではなく、心が。
 無意識の内に彼は立ち上がり、その一挙一動をぼんやりと見つめるシエラの前に跪く。

「……エルク?」

 一体なにをしているのだろう。まっすぐに真剣な眼差しで見上げてくるものだから、シエラは訳が分からなくなって首を傾げた。

「帰りたいか?」

 どこに、とは言われなかった。けれどシエラはそれがどこを示すのかすぐに悟り、驚きに目を瞠る。
 エルクディアの問いをもう一度自問する。帰りたいか。一呼吸置いて出てきた答えを、彼女は首を左右に振ることで示した。

「だったら……後悔、してるか?」
「さだめとはいえ、私は私の意志でここに来た。確かにユーリは鬱陶しいし、勉強だなんだというのは面倒だが……悔いてはいない」

 後悔してしまえば、それは己の歩んできた道の全てを否定することになる。
 この運命を受け入れ、生きると決めたあのときの自分を、なかったことにしてしまう。
 それだけは嫌だったのだ。たとえどれほどつらくとも、逃げ出すことは嫌だった。
 シエラが最も嫌いな面倒事だとしても、逃げずに歩んでいくと、確かにそう決めた。
 ただ時々、本当に時々だけれど、なぜ自分がここにいるのか分からなくなるときがある。なぜ自分なのだろうか、と。
 だが、確かに自分で決めたのだ。
 ――だから。だから、後悔などしていない。
 それは確かな事実であり、そしてほんの僅かな嘘が含まれていた。彼女の心が自らを守るようにと勝手に零した小さな嘘は、結局彼女自身にしかつき通せていなかったけれど。
 思いのほかしっかりと言いきれたことに満足して、シエラはいつまでたっても動こうとしないエルクディアに痺れを切らして立ち上がるよう促した。

 それと同時に髪飾りが滑り落ち、床とぶつかり合って乾いた音を立てる。
 そこに向けられた意識を引き戻すがごとく、エルクディアがシエラの手を取った。 
 え、と驚いている間に、指先に彼の吐息を感じて反射的に手を引こうとする。けれどそれすら叶わぬほど強く引かれ、射抜いてくる新緑の双眸に体の自由さえもを奪われた。

「――無理するな、シエラ。俺がいるから」
「なに、を……」

 手首につけられた華奢な腕輪が悲鳴を上げる。指に触れる温かな感触に、気が狂いそうになった。
 目の前で起きている現実を直視することができず、かといって目を背けることもできずに呼吸が乱れる。
 早鐘を打つ心臓を持て余し、どうすればいいのか分からないシエラを真摯な瞳が絡め取る。

「アスラナ王に命ぜられた、名誉ある騎士の役目に心からの感謝を。そして、この剣と我が命に懸けて誓う。他のなにを失うことになろうとも、必ずお前を護ってみせる。お前が望むなら、何度だって言う。絶対に、傷つけさせたりなんかしない」

 うそつき。
 未だにしっかりとした熱を感じる手を振りほどくこともできないまま、シエラはそんなことを思った。
 エルクディアの本来の主君は、自分ではなくてこの国の王――ユーリだ。
 今まさに彼が言ったではないか。アスラナ王に命ぜられた、と。
 それなのに「他のなにを失っても」だなんて、約束できるはずもない。
 絶対の主君を捨て、この身を優先することなどありえるはずがない。「絶対に」だなんてありえない。だから彼は嘘つきだ。
 けれどそんな思いさえ、彼の視線が覆そうとしてくる。逃げ道を用意してくれない、まっすぐな言葉にどう反応すればいいのか、これっぽっちも分からない。
 シエラはますます目を泳がせ、じわじわと火照ってくる頬の感覚を忘れようと、きつく目を閉じた。

「俺には、お前の本当の気持ちは分からない。お前だけじゃない。ライナもユーリも、自分じゃない他の誰かの気持ちなんて、まったく分からないんだ。こう思ってるのかもしれないなとは考えても、それで分かったつもりになる気はない」

 遠くから流れてきていたはずの音楽が、ふつりと途絶えた。いや、実際は、随分と前から聞こえていなかったのかもしれない。
 耳に滑り込んでくるのは、エルクディアの、穏やかでありながらも強い声音だけだ。 
「けどな、シエラ。全部の気持ちは分からなくても、無理してるのは分かるんだよ」
「無理など……」
「してるだろ? 現にほら、俺の手を振り払いたいのにそうしない。あのときはできたことが、なんで今はできないんだ?」
「それはっ、別に、理由など……!」
「目だってちゃんと合わせない。手だって震えてる。……怖いなら怖いって、言え」

 以前、騎士から贈る挨拶として、手の甲に口づけされた際には、確かにこの手を振り払えた。驚きはしたが、自分でも抑えが利かなくなるほど震えることはなかったのに。
 分からない。なにも考えられなくなる。
 ほんの僅かに力の込められた指先と、苦しそうな声を聞いてシエラはのろのろと瞼を押し上げた。――そしてすぐに、そのことを後悔する。
 その目が、ぬくもりが、泣きたいくらいに心を締め上げていく。
 きゅうきゅうと音を立てて胸が軋む。言葉など泡のように弾け、仕舞い込んでいたなにかが溢れそうな気がした。
 もう嫌だ。この静けさには耐えられない。

「エル――」



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