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 エルクディアは向かって右側に並んでいる五つの石像のうち、三つ目まで来ると静かに剣を抜いた。なにをする気だと問う暇もなく、彼は台座に巻きついていた蔦を切り落とす。
 花壇の裏に隠れるようにして台座の裏をいじると、台座の一部が扉のように横滑りし、人一人がやっと通れるくらいの穴が生じる。
 落とすようにそこに押し込まれ、シエラは困惑を隠せないままエルクディアを見上げた。

「悪い、でもここで少し待っててくれ。いいか、たとえなにが聞こえても絶対にここを出るな。俺がこの扉を開けるまで、目を瞑って耳を塞いでろ。説明はあとでするから」

 『たとえなにが聞こえても』? ぞっとしない台詞に眉根が寄る。
 不信感を感じ取ったのか、エルクディアがようやっと微笑した。一瞬だけ息を止めて、肩の力を抜くような、そんな笑い方だ。

「大丈夫、すぐに戻るよ。十分――いや、五分で戻る。でももし、三十分経っても戻ってこなかったら、そのときは夜明けまでここで我慢してくれ。三の鐘が鳴った頃なら、なんの心配もいらないから」

 三の鐘は、時計塔から午前七時に鳴らされる。
 普段はその時間に起きていることなど滅多にないため、シエラは三の鐘がどのように鳴らされるのかをよく知らなかった。

「五分で戻るんじゃないのか」
「戻るさ。だから万が一の話だ。いいな? 絶対にそれまでは、なにがあってもここから出るなよ」
「――断る」

 危険だから。なにがあるか分からないから。
 だからこんな蹲るのがやっとの場所で膝を抱えて息を殺して、戻ってこないかもしれない相手を待てと言うのか。
 すべてはこの身を守るために。
 唖然とするエルクディアをしっかりと見上げて、シエラはもう一度同じことを言った。

「断るってお前……今どういう状況か分かってるのか!? 馬鹿なこと言わずに――」
「どういう状況なのかはあとで説明する。そう言ったのはお前だ。私は五分しか待たん。誰がこのような土臭い場所で夜明けを待つか。それともお前の中で、夜明けは五分後か?」

 顎と同じ高さに地面があり、エルクディアのつま先が見えた。少し湿った土のにおいが鼻腔をくすぐる。
 穴の中は確かにそれで溢れていたが、別段シエラはこのにおいが嫌いではなかった。
 覗き込んでくる彼の顔が複雑に歪んで、大きく息を吐きながら天を仰いだためにシエラからは顔が見えなくなる。
 小さな笑い声には、諦念となにか別の感情が入り混じっていた。

「分かった。必ず五分で戻る。――約束する」

 くしゃりと大きな手で頭を撫でられ、じゃあなと扉が閉められた。縦穴の中は一気に闇に呑まれ、顔の前にかざした手すら見えなくなる。
 シエラは半歩だけ下がり、背に壁が当たったところでずるずるとその場に座り込んだ。背中はパルダメントゥムがあるから大丈夫だろうが、裾の辺りは泥だらけになっているだろう。侍女やライナが目を剥くに違いない。
 立てた膝に額を乗せて、胸に溜まった息を吐く。
 土のにおいは嫌いじゃない。だが、暗く狭い場所は少し苦手だ。
 なにも見えない。なにも聞こえない。ただ早鐘を打つ心臓の音だけが自分の内側から響いてくる。

 約束する。確かに彼はそう言った。必ず戻る。約束する、と。

 なにが起きているのか、なにに気づいたのか、なぜこんな場所があるのか、聞きたいことは山ほどある。
 自分のことだから、明日になればそれもすべてどうでもいいと思うのかもしれない。
 でも今は知りたかった。彼がなにをしに、どこに行ったのかを。
 けれど無理についていくことはできない。足手まといになるのが目に見えている。
 なにもできない自分には、こうやって膝を抱えているのがお似合いだ。
 綺麗に着飾って、自分のために各国の要人が集められ、そして無条件に守られる。
 聖職者としてはなんの役にも立たない未熟さすら、神の後継者という先を見据えた大きな期待によって許されている。
 なにができるかだなんて、自分にも分からないのに。
 これではまるで――。

「……籠の中の卵、だな」

 きっと美しい鳥が生まれる。きっと素晴らしい声で鳴く。きっと、きっと。
 そうした期待を周囲からかけられ、まだかまだかと誕生を心待ちにされる。こつりと内側から殻をつつこうものなら、飲めや歌えやの大騒ぎ。
 たとえ殻を破ったところで鳥は飛び立てることなどなく、最初から最期まで鳥籠の中で生きる。
 生まれたときからの籠の鳥は、空の青さも広さも知ることなく、限られた空間だけが世界となる。
 その世界の中で、どのような生き方をするのかは分からない。けれど鳥が不幸になることはないのだろう。
 飢えることもなければ、寒さに凍えることもない。自由に恋い焦がれることもない。だってその鳥は、初めから自由を知らないのだから。

 けれどそれが幸せかと問われれば、シエラは答えに詰まる。なにをどう感じるかは人それぞれだ。
 どんな過酷な状況においても突然舞い降りてくる出来事を幸せと呼ぶ人もいれば、自分で掴み取った好機の先にあるものこそ幸せだとする者もいる。

 ならば、自分はどうだろう。
 自分はなにを幸せと感じるのだろう。
 目を閉じて、ひたすらに己が発する音だけを聞きながら考える。そうしているうちにうつらうつらとしていたらしい。
 ふと目が覚めたのは、重々しい音を立てて扉が開かれ、エルクディアがひょいと顔を覗かせたときだった。
 だからシエラには、彼が本当に五分で戻ってきたのか、それともそれ以上かかったのか分からなかった。
 差し出された手を掴んで穴から這い上がり、想像していたより汚れていないドレスの裾を払いながら、「ただいま」を聞く。
 五分か、それ以上か。そんなことは分からない。

「……遅い、待ちくたびれた」

 途端に抗議の声が上がったから、本当に五分程度で戻ってきたのかもしれない。
 でも、細かい時間なんてどうでもよかった。
 見上げた空には、先ほどと変わらぬ夜空が広がっている。端の方もまだ小指の先ほども白んではいない。
 約束した。夜明けまでに帰ってくると。
 そして彼は、約束通り夜明けまでに帰ってきた。
 ならばもう、それでいい。
 どうしてこんな風に思うのか自分でも不思議に思いながら、シエラは手袋をしていないエルクディアの手に、己のそれを重ねた。



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