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前を見ずに走っていると、時折段差や柔らかい土に足を取られて転びそうになる。
それでもなんとか体勢を整えて進んでいると、敷布はシエラの努力を嘲笑うように闇の中へ吸い込まれていった。
くそ、と毒づいて立ち止まる。せっかく整えた呼吸もこれでは水の泡だ。よくよく目を凝らせば、高い木の枝に白い布がひらひらとはためいている。
登れる自信はなかったが、せめて木の下まで行ってみようと思った。
しかし目の前が高い生垣だと気づき、舌打ちする。このまま迂回して辿りつけるだろうか。それよりは、この迷路のような庭園を突っ切って進んだ方が早い気がする。
そうは思うのだが、シエラは自分の方向感覚がいまいち優れていないことを思い出して渋面を作った。
夜露のしみ込んだ上質な土のにおいと、蕾のままでもかすかに漂う蜜の香りが鼻腔をくすぐる。
迂回すべきか突っ切るべきか。考えあぐねていたシエラの耳は、庭園の中から聞こえる声を拾った。
誰だろうか。そうは思うも、確かめに行くだけの好奇心は備わっていない。
ちょうど反対側に位置する庭園はがやがやと都民達で賑わっている。なら、この中にいるのもそんなところだろう。
そんなシエラの予想を、物騒な言葉が裏切った。
『――備は、でき――か?』
『もちろん。あとは――――だけ』
『なら――い。や――は、――が殺す』
「な……」
途切れ途切れに聞こえてきた会話の断片に確かな怨嗟を感じて、氷塊が背筋を滑り落ちた。反射的に後ずさる。
殺す、と言っていた。声からして男だろう。呪詛の塊のような言葉に吐き気がする。がんがんと頭痛がした。魔気を感じたわけでもないのになぜだろう。
ふらりと後ろによろめいたシエラの腕を、何者かが強く引き寄せる。
はっと息を呑んだときには、もうすでにその者の腕の中に収まっていた。
「やっと捕まえた……!」
「な、んだ、エルクか。驚かせるな!」
頭上から降ってきた声にほっと安堵する。それでもまだばくばくと全力疾走している心臓は、落ち着きそうになかった。
よいしょ、と半回転させられて顔を突き合わせる。
涼しげな顔立ちをしているくせに、エルクディアの双眸は疲れ切っているようだった。
「驚かせるなはこっちの台詞だ。猫みたいにちょこまかと……!」
うさぎの次は猫か。むっと唇を尖らせると、エルクディアの表情が一変した。そう怒るものでもあるまいに。
ところが彼の目はシエラを映すことなく、庭園の奥を睨みつけている。どうしたと問いかける前に背に庇われ、彼が中にいる人物に気がついたのだと悟った。
「――どうやら、招かれざる客がいるみたいだな」
さすがと言うべきだろうか。ほんの一瞬で気配を感じ取ったエルクディアは、小さく舌打ちした。
覗き込んだ新緑の双眸は、警戒心で鋭くきらめいている。思わずその横顔に魅入り、シエラははっとして頭を振った。
見た目の美しさと中身に秘めた苛烈さ、そしてその誇り高さはまさに竜と呼ぶに相応しい。そういえば彼は、戦場では『竜騎士』や『アスラナの竜』などという異名がついていると、ライナから聞いたことがある。
とはいえ、シエラには彼が戦場で剣を振るう姿が想像できなかった。
そう告げると、ライナはひどく困ったような顔をして苦笑したのだけれど。
「オリヴィエ、いるんだろ」
誰もいないと思っていた闇の中に、エルクディアが小声でそっと呼びかけた。
すると闇の奥から一人の男が姿を見せる。彼の服装はエルクディアと同じ軍服で、一般兵ではないようだ。
目の前までやってきて、深くこうべを垂れた男をまじまじと凝視する。オリヴィエ。どこか聞き覚えのある名前だった。
「いけるか?」
「私に――六番隊リーオウに、お任せ下さい。民には気づかれぬよう、対処いたします。お二人はどうぞ、そのまま宴をお楽しみ下さい」
「ああ、頼んだ。じゃあシエラ、行くぞ」
「行く? どこへ」
その問いに答えることなく、エルクディアはシエラの手を引く。一刻も早くこの場所から引き離したいとでも言うように。
恭しく一礼したオリヴィエという男は、ひらりと身を翻すと庭園の中へ消えていく。
――遠ざかっていく庭園から、金属音が聞こえたのはそのすぐあとのことだった。
+ + + 円柱に背を預け、ぱたぱたと走り去っていった女の後姿を思い出す。敷布を巻きつけた、一見すれば妙なだけの女。
見上げてきた瞳は猫のように少しだけ目尻が上がっていて、暗闇の中でもきらりと光を反射させた。色は金。白い敷布の間から覗いたのは、見紛うことなき蒼い髪。
面倒な夜会など、端から参加する気などなかった。しかし父王の厳命を受けては断れるはずもなく、渋々末の弟とアスラナまでやってきた。
自分達二人に任されたことを考えると、父もさほど神の後継者に重きを置いていないらしい。
――だが。
ここのところ、国の雲行きが怪しいのは確かだ。
一時は身の回りすべてのものに毒が仕込まれているやも、と疑わねばならぬ日々が続いたというのに、今ではそのような噂も聞かない。
第一、第二、第三公子にも動きが見えない。他の公子達は各地方を任され、散り散りになっていった。王都に残った自分達は、中央に必要だったわけではない。
使い物にならないから余っただけなのだ。
だというのに、胸騒ぎがする。そしてこの嫌な予感は、今までよく当たってきた。