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「……お前の言葉を、借りるなら」
癪だがな、とシエラはご丁寧にも付け足して続ける。
「私は、母君や父君からたくさんのものを頂いた。もう、十分だ」
「シエラ……」
もし今会ってしまえば、声を聞いてしまえば、言ってはいけないことが口をついて出そうで怖かった。
万が一、別れを惜しむようなことを言ってしまったら、どれほど彼らを苦しめるか分からない。
きっと彼らは行くな、と言ってくれるだろう。
シエラの望む言葉をくれるだろう。
けれど、それを彼らは本心から望まないだろう。
シエラ自身、行かなければならないと思っているのだから。
十分であるはずがない、とカイは思う。
親から貰う愛情に、限りなどない。愛されれば愛されるだけ、子供は幸せになるのだから。
それがシエラの持つ優しさだということを知っているからこそ、カイはただ頷くことしかできなかった。
その優しさは人に理解されないことも多く、冷たい人間だと言われてしまう場合も多々ある。彼女はそのことにまったく頓着しておらず、忠告したところで「言わせておけ」と吐き捨てるだろう。
強さか否かと問われれば、それは判断しかねるところだ。
「……あ?」
ふいに二人の耳に、遠くから地を伝って響く馬蹄の音が聞こえてきた。足元から揺れ動く感覚が強くなってくると共に、ぼうっとした赤い光が闇の向こうに浮かび上がる。
蹄の音が近くなるにつれ、シエラがその方角に目をやってぽつりと呟いた。
「来たようだな」
――この村との、別れのときが。
+ + + なぜ神は、人を後継者に選んだのだろうか。
天界には多くの神々がおわすと聞くのに、なぜかの神は、脆弱な人の子を神にすると定めたのだろうか。
悲しいと一言も言わない目の前の少女を見ていると、そう思わずにはいられない。
すぐ間近まで迫ってきた蹄の音を聞きながら、シエラは湖をそっと見下ろした。
ゆらりゆらりとたゆたう湖面を見て月を見上げ、最後に明かりのついた店を振り返って闇の向こうに揺れる松明を眺める。
その一連の動作に彼女の思いすべてが凝縮されているような気がして、カイはやるせない思いを抱いた。
シエラの母から預かってきた言伝をしなければならないのに、口の中がからからに乾いていて声は喉に張り付く。
緊張しているのだろうかと考えて、彼は己を嘲笑った。
「“幸福を、わたし達の愛しい娘”――誰からは、言わなくてもいいよな?」
「……ああ」
カイを見ようともせずに頷き、シエラはもう一度湖に視線を落とした。
「…………馬が、近くなったな」
確認するようにシエラは首をめぐらせ、松明の揺らめきを見る。すでに乗り手の顔まで確認できる距離まで馬は近づいてきており、騎手はどうやら若い男らしい。
松明の炎に照らされて赤銅色に輝く髪は、おそらく金髪だったのだろう。
シエラ達の姿を確認し、騎手はさらに速度を上げた。
冷たい風に煽られ、炎がうねりを上げるが騎手はまったく気に留めない様子で駆けてくる。ああ来てしまったか、と心中で零したカイは苦く笑って、とんっと軽くシエラの背を押した。
驚きに目を瞠り、そしてその意味を悟ったらしい彼女は俯いて唇を噛む。次に彼女が顔を上げたときには、すでに馬がすぐそこまで迫ってきており、小さくいなないて騎手が降りたあとだった。