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 訝しげなシエラの呟きに、男の表情が凍りついた。元々白い肌をさらに白く変色させ、わなわなと唇を震わせる。
 戦慄の走った体を抱き締めるように抱え、アスマンは目を見開いてライナを凝視した。
 ぴんと背筋を伸ばして胸を張り、指先、足先に至るまで意識しつくしたような立ち姿。
 アールグレイの大きな瞳でアスマンを見下ろす彼女からは、気高さが感じられた。

「ま、さか……お前、が」
「クレメンティア・ライナ・ファイエルジンガー。父ロベルトの、実の娘です。今は訳あって、母方の姓を名乗っていますけど」

 周囲に漏れぬよう小声でそう言ったライナの微笑は、どこか悲しげにも見えた。
 公爵家の娘という立場は、どうやらシエラが想像するよりもすごいものらしい。
 目が回りそうなほど混乱しているアスマンは、尻餅をついたまま後退しようとして柱に頭をぶつけた。
 長ったらしい名前だと思ったことをそのままライナに告げると、彼女は呆れたように――けれど一瞬、泣きそうなほどほっとした顔をして――小さく頷き、手にしていた棒を軽く振った。
 するとそれは硬さを失い、たらんと重力に従う紐に姿を変える。

「ハンス・アスマン。ファイエルジンガー家の名を騙り、民から悪税を徴収したそうですね。ことあるごとに公爵家がついている、公爵様が黙ってはいない――と言いふらしていたそうではありませんか。それに、クレメンティアと婚約関係にある、とも言っていたとか。アラン大公様が大変驚いてらっしゃいました」

 なにも知らぬ者がライナを見れば、とても機嫌よく喋っているように見えたのだろう。だがそれは幸せな勘違いだ。
 直接対峙していないシエラでさえ、ぞっとするほど凛冽な空気に呑まれかけている。
 にこりと笑ったライナが、一瞬にしてその笑みを掻き消した。

「大人しくこの場を去るか、爵位を捨て、牢でお過ごしになるか。どうぞお好きな方をお選び下さい」


+ + +



 光が強ければ、影は濃く落ちる。
 それを見て、愛しい貴女はなんと言うだろう。

 貴女は光の中にいる。
 貴女が輝く光となる。
 
 ――貴女の光が、影を生む。


+ + +




 ライナの出身国エルガートは、アスラナの北東に位置する隣国だ。アスラナと比較すれば四分の一ほどの国土だが、他国の中では平均的な大きさを保有している。
 エルガートの現王は質素倹約を心がけ、民の平穏な生活を心から願う良王と聞いている。国そのものの財政は豊かで、高質な水晶のよく採れる裕福な国だが、その実貧富の差は激しい。
 王の目が行き届かない地方では領主達が好き勝手に税を巻き上げ、民の暮らしを脅かしているのだという。
 なに不自由のない生活を送る貴族と、その日暮らしもままならない平民がいることも、紛れもない事実であった。
 俗に貴族と呼ばれる領主達の権威は強く、中でも高い爵位を持つ者達にはおいそれと逆らうことができない。
 アスラナとは爵位制度が異なるようだが、ライナは公爵家、一方アスマンは伯爵家で、彼女の方が位は上らしい。
 加えてアスマン家は悪政を働くとして民の中でも評判が悪く、公平無私な善良貴族達からも疎まれる存在であった。
 大してライナのファイエルジンガー家は王に倣い、民を第一に考えるよき領主として名高い。

 そんな彼女に浅知恵伯爵ごときが敵うはずもないのだと、エルクディアは、おぼつかない足取りで逃げるように去っていったアスマンの青ざめた顔を思い出しながら言った。
 シエラ達を迎えに来た当初はなにが起きたのかさっぱり理解できていなかった彼に、殺気立つライナの理由をかいつまんで説明してやると、彼もまた目元を険しくしてなにやら唸っていた。
 穏やかそうに見えて、この二人は意外と短気なのかもしれない。
 エルクディアは重みのありそうな外套を肩に掛け、いつもならそのままにしている襟足の髪を申し訳程度に括っていた。
 大差ないと思うのだが、それだけで周囲の評価が変わるらしい。

 夜空の下、昼間のように明るく松明が燃やされ、民衆で埋め尽くされた庭園を見下ろしたときの感覚を思い出してシエラは身震いする。
 遠慮の欠片もないわあわあという歓声が、今でも耳にこびり付いている。
 誰もが皆、皿を片手に満面の笑みを浮かべていた。宮廷楽師が奏でる一流の音色に酔っている者が果たして何人いただろう。
 けれどそういうものなのだ。彼らにとって最高の音楽とは、仲間の笑い声なのだから。
 彼らは笑えだの手を振れだの、あげくの果てには踊ってみせろだなどと無遠慮に口走ってきたが、シエラは今の状況よりもその方が幾分かよかったと額に手を添えた。
 頭が割れそうだ。
 果てしなく高い天井を仰ぎ見て、シエラは心中でぼやいた。
 吹き抜けになっている大広間の天井には、豪奢なシャンデリアがきらきらと蝋燭の光を反射させている。
 あの蝋燭の炎は、消えたり燃え移ったりしないように、神官達が特別な法術を施したのだとライナが教えてくれた。壁に掛かっている燭台の炎もどうやら同じ要領らしい。
 この大広間は劇も観賞できる造りになっているらしく、伝統的な劇場のそれとよく似ていた。
 そうは言われても劇場になど足を踏み入れたことのないシエラにしてみれば、ただ広いだけの空間だ。
 階段をどれほど上ってきただろうか。上から階を数えると三階部分に相当するこの場所から見下ろす人々の姿は、夕食に出てきたスープの豆よりも小さく見える。
 内側に向かって半円形に張り出した露台(バルコニー)の上は、先ほど民達に顔を見せたバルコニーの高さとそう違いがないような気さえしてくる。

「随分と気分が悪そうだけれど、大丈夫かい?」

 そっと肩に添えられた手を払い落とし、シエラは目元に険を浮かべた。

「そう思うなら部屋に戻らせろ。……どいつもこいつも人のことを珍獣でも見るかのようにじろじろと。不愉快だ」
「まあまあ、そうむくれていては折角の美人が台無しだよ。ほら、笑いたまえ」

 きゅ、と手を顎に添えられて口角を持ち上げられる。同時に文字通り割れんばかりの――無論、頭がだ――悲鳴があちこちから聞こえ、苛立ったシエラはいっそ指を噛んでやろうかと物騒なことを考えた。
  なにが嬉しいのか、ユーリが姿を見せただけで女性客達はきゃあきゃあと歓声を上げ、青年王の演説には性別など関係なく誰もが酔いしれた。
 そして神の後継者たるシエラを客人達に紹介し、その際ほんの戯れに頬に口づけられた。
 もちろんシエラはすぐに青年王を突き飛ばしたが、鼓膜を破るような悲鳴が轟いてきたのだ。
 それから青年王が近づいてくるたびに、刺々しい視線が突き刺さる。
 優雅な音楽に隠れて交わされる陰湿な陰口にも、いい加減嫌気が差してきた。

「へ・い・か。お戯れもほどほどに」
「おや、手厳しいね総隊長殿。少しくらい羽目を外してもいいのだよ?」
「あなたは常に外しているような気もしますがね」

 出会ったときと同じ笑顔でエルクディアは言い、シエラの顔に触れていたユーリの手を掴み上げた。
 人の目があるからか慇懃に振る舞ってはいるものの、内心は怒鳴り出したいに違いない。
 それを知ってか、青年王は軽く身を翻してエルクディアに向き直る。なんだと訝る彼の頬をするりと撫で、低く、甘く囁いた。



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