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「怖い怖い。まるで貴女が彼女の騎士(ナイト)のようですね。美しい花には棘があるとは言いますが、どうやら真実だったようだ」
「そのようなお言葉、伯爵には似合いませんよ。貴方からは聞きたくもない。忙しいので失礼します」
手を出せば噛み付かんばかりの勢いだ。手を握るのではなく掴むようにして引いてきたライナに、シエラは小鴨のようについていくしかなかった。
ゆるく波打つ髪が、陶器でできた人形よりも無機質な顔を覆っている。
ライナ、と声を掛けようとしたところで、シエラの肩に激痛が走った。
「痛ッ――!」
「ふざけるな! この私を侮辱しておいて、どうなるか分かっているのか!? たかが神官風情が調子に乗るな!」
矜持を傷つけられ、耳まで赤く染めながら激昂するアスマンの指先がシエラの肩に食い込んでいる。剥き出しの肌に触れられる感触と、突き刺さる爪の痛みに身を捩るが、男の手はぎりぎりと容赦なく力を込めてくる。
「なんなんだお前はっ、離せ!」
「うるさい! お前だってどうせ、教養もなにもない、国のお飾りだろう! 本当に後継者かどうかもあやし――」
ひゅんっという風を切る音が耳元で聞こえた。
乾いたその音は、エルクディアが剣を凪いだときの音とよく似ている。その音よりももっと軽いが、通常ならば聞こえない音に疑義を抱く。
小さな呻き声と共に緩んだ拘束から逃れ、シエラは己の肩を掴んでいた男を見上げた。――のだが、持ち上げた視線の先に男の姿はない。
肩からは熱が消え、後に残る痛みだけがじんじんと疼いていた。
不思議に思って下を見やると、赤褐色の頭が腰の辺りで蠢いている。
思わず後ずさったシエラは、目にした光景を表現する言葉が思い浮かばなかった。
「シエラへの無礼は赦さないと、忠告いたしませんでしたか、ハンス・アスマン」
生まれながらにして背負い、どうにもならないものは容姿だけではない。
いずれは変えることができるけれど、最初から望んで手にしたものではないものも、確かに存在するのだ。
必要ないと思っているのに、捨てきれない自分に嫌気が差す。
けれどそれで彼女を守ることができるのなら、くだらない矜持に構っている暇などはなかった。
「彼女に対する無礼は、何人(なんぴと)たりとも赦しません。神官ごときが伯爵に歯向かえるはずもない、とでもお思いですか?」
この状況で?
凄絶なまでに冷え冷えとした嘲笑がライナの口元に浮かぶ。なにが彼女をそこまで追い立てるのかは分からない。
だが、声を掛けるのもためらうほど、今の彼女は人を寄せ付けなかった。
尻餅をつくアスマンに突きつけられているのは、白く細長い棒だ。薄く厚みがまるでないそれを静かに男の首筋に宛がって、ライナは恐ろしいほど優しく笑ってみせた。
男の双眸から、恐怖の色以外に読み取れるものはない。
「こっ、このような、野蛮な真似をしてただで済むとは……!」
「――ロベルト・ファイエルジンガーに、大変立派な贈り物をされたそうですね、アスマン伯爵」
ため息混じりに紡がれた言葉に、シエラとアスマンは訳も分からずライナを見た。彼女は一体なにを言い出すのだろう。
微塵も状況が把握できないシエラとは裏腹に、さあっとアスマンの顔色が青ざめていく。
「お前! 公爵様を呼び捨てにするとは何様のつもりだ! 我がエルガートの誇りを侮辱する気か!? 土地ばかりでかいアスラナ風情が、偉そうに! こんなことを公爵様にお伝えすれば、お前など容易く闇に葬れるぞ!」
「ええ、確かにそうかもしれません。時にアスマン伯爵、彼の娘の名をご存知ですか」
怒りと羞恥に染まった顔には、怨嗟が深々と刻み込まれている。アスマンは屈辱だと吐き捨て、視線を合わせようともしないまま立ち上がろうと腰を浮かせた。
しかしすかさずライナがそれを制し、動くことを許さない。
なにもできなくなったのはシエラも同じで、そろりとライナを盗み見る。
そのとき、ふいに昇り立つ筆舌に尽くしがたいなにかを感じ取った。
ぴんと張り詰めた清廉な空気がそこにある。体の内側からなにかが這い出してくるように、ぞわりと胸が騒ぎ立てる。
自分にはない、確かな気品のようなものがライナから溢れている。
恐怖でも嫌悪でもない胸騒ぎは、喩えるならば絶景を見たときのそれだ。不安でもないのに胸が締め付けられ、説明しようのないものが目の奥から滲み出す。
不思議と背筋が正され、言葉は声を伴わない。そんな感覚とよく似ている。
「長女クレメンティア様、次女ユシュール様だ。それがお前となんの関係がある!」
「その様子ですと、姿をご覧になったことはなさそうですね」
「はっ! お二方はお前とは比較にならぬ高貴なお方だ。大層お美しい方だと聞いている。病弱でいらっしゃるゆえ、公の場に姿は現さぬ、と」
「そんな噂が? 確かにユシュールは病気がちですけど」
まるで知った風な口ぶりだ。それがアスマンの怒りに油を注いだらしく、彼はより一層牙を剥いて怒鳴り散らした。
遠巻きに見ていた貴族達から、くすりと笑声が零れ始める。ああなんてみっともない。そんな嘲りに彼は気がついていないようだった。
「ご存じないようですから、教えて差し上げます。ロベルトの妻であるエーファは、公爵家に嫁ぐ以前はエーファ・メイデンと名乗っていたんですよ」
「……メイデン?」