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「今すぐ身包み剥いで重石つけて井戸に頭から沈んでこい」

 あえて言おう。この台詞を放ったのは、柄の悪いむさくるしい男ではない。
 ここに立つのは、毎夜毎夜、月の光を零さずに集めたかのような金の瞳を持ち、清流のようであり、また、ぴんと張り詰めた湖の水面のようでもある蒼い髪を背に垂らす女性だった。
 抜けるように白い肌に配置された唇は、瑞々しく朝露を浴びた深紅の薔薇で彩ったのではないかと、作家か画家であればそんな夢のような表現をしてしまうほどのものだ。
 そしてその唇から、今しがたあの台詞が一息に吐き出されたのである。
 どこでこんな暴言を覚えてきたんだろうかと嘆きつつ、エルクディアは手にしたドレスに刃のような視線を向けるシエラに苦笑した。
 大体分かっていたことだが、それでもこうまで拒否されると物悲しいものがある。
 首まできっちり肌を覆う漆黒の衣服は、彼女自身の雪のような白さと対照的でとても魅力的ではある。神々しく、近寄りがたい雰囲気を漂わせてはいるものの、触れてみたいと思わせるなにかを持っていた。
 ――似合ってはいるのだ。本来ならば女性が身にまとうことはない神父服は、まるで彼女のために存在するように思えるほど、似合っている。

 だがしかし、今夜の式典は神の後継者を広く知らしめるのが目的だ。華やかに、荘厳に。
 威風堂々とした、あるいは庇護欲さえ掻き立てられるほどの繊細な、そういった佇まいで目を惹きつける必要がある。
 特に国民には、どれほど神の後継者が貴いものかを見せる必要がある。着飾れば着飾るほど、それだけで力ある者に見せることができる。
 そうでなくても力があるのは十分に理解している。けれどそうすることで彼女自身の評価が上がり、この国の発展に繋がることは紛れもない事実なのだ。
 あまりこうした考えはエルクディアとて好きではなかったが、事実は事実として受け止めるしかないと割り切っている。

「嫌なのは分かるけど、仕方ないだろ。なにもこれから先ずっとって訳じゃないんだ。それに前にも似たようなやつ着たことあるだろ?」
「そのようにひらひらすかすかしたものに、お目にかかったことはない」
「すかすかって……」

 言われて見れば、しているかもしれない。
 シエラにとユーリが用意したドレスは、全体的に緑で統一されていた。
 翡翠色の布地が主となっており、胸元には僅かにレースがあしらわれている。細かな装飾が目を引くが、それよりも印象的なのは肩から背中にかけては大きく開いているところだ。
 脇腹の辺りは編み込みのような構造になっていて、そのすぐ下には白のレーススカートがふんわりと広がる。それを覆い隠すように鮮やかな孔雀色のパレオが波打ち、淡い浅葱色の花飾りで止められていた。
 足元は大変大きく広がっていて、花弁の多い花を逆さにしたように見える。当然肩から腕は剥き出しで、その代わりに細身の白い長手袋が一緒に用意されていた。
 エルクディアからすれば、この細い手袋に腕が収まるのかと非常に不思議だ。

「まあとにかく、一曲踊ればユーリも文句言わないさ。あとは適当に愛想笑いするなり、食事を楽しむなりすればいいんだから。お偉い方が来たら黙って会釈でもすれば問題ないし」
「…………踊る?」

 手にしていた本をぱたりと閉じ、ほんの一瞬目を大きくして聞き返される。
 エルクディアの頭を、ライナとのやり取りがすっと横切った。

「ああ、舞踏会も兼ねているから当然だろ?」

 そっと様子を窺うように言えば、シエラは足をどこか不自然な様子で組み替え、机に乗せた右手でこつこつと本の表紙を叩き始めた。
 彼女の目がドレスとエルクディア、そして部屋中を行き来する。
 猫のような目は視線を合わせようとはしなかった。
 明らかに挙動不審になってしまったということは、もしかしてもしかしなくても、そういうことなのだろうか。

「――踊るといっても、相手は誰だ。私は素性も知れぬ輩と踊る気はない」

 おや、とエルクディアは目を丸くさせる。
 てっきり「嫌だ誰かするかそんなもの!」と返ってくると思っていたのに、意外な反応だ。もしや経験でもあるのだろうか。
 嫌だったのはドレスだけで、舞踏そのものに問題はないのかもしれない。
 ならば少しは気も楽になる。
 安心したエルクディアは、ごくごく自然に満面の笑みを浮かべた。

「大丈夫、相手は俺だから。お前を他の奴と躍らせるわけないよ。だから相手の心配はする必要ない」
「――待て。なぜそうなる」
「は? 当然だろ? 俺はシエラから離れない。……この前みたいなことがあったら堪らないからな。お前を守るのは俺だって、言ったろ?」

 守ると決めた相手が、目の前で傷つく様を見るのはもうこりごりだ。
 誰にも譲らない。この手で彼女を守ると誓ったのだから。
 な?、と笑いかければ、白い頬がほんのりと赤く染まった。形よい頭を撫でるのが好きだ。
 ほぼ癖と化している己の所作に気づかないまま、エルクディアはシエラの頭に手を置いた。
 なぜ俯いたままなのか、と考えることもなく彼はその髪を優しく梳いた。

「式典中は、ずっと傍にいるから」 

 ――まあもちろん、式典が終わっても傍にいるけどな。
 当たり前のことだから、なんの他意もなくさらりと口にすることができた。
 冷静になってみればそれが愛の告白まがいだったと気づいたのだろうが、このときは安心するやらなんやらでそこまで気にかけていなかったのだ。
 だから少しだけ触れあったシエラの耳朶が熱を帯びていなかったことにも気づかなかったし、その様子を見て自分が穏やかな気持ちになっていることにもまた、気づきはしなかった。

「……他にも。他にも、護衛と名のつく者はいるだろうが。ライナだってそうだろう」
「ライナ? まあ確かにそうだけど、女同士で躍らせるわけにはいかないだろ? それにライナもライナで、引く手数多だよ」
「ならば、ユーリが……」
「アイツは無理だ。国王っていう立場上の仕事もあるし、それに抱えきれないほどの美女を侍らしてるだろうし。……絵にはなるし、有効的な手段だとは思うけど、ちょっとな」

 ユーリと躍らせた場合、他の女性からの嫉妬が恐ろしい。できるだけ無駄な危険要素は排除した方が得策だろう。
 う、とシエラが言葉を詰まらせ、半ば睨むようにぎっと視線を向けてきた。まるで怪我をした野良猫のようだ。



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