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*第6話


 目の回るような忙しさとは、どうやらこのことを言うらしい。
 右へ左へ上へ下へと駆け回っていたライナは、自分よりもさらにせかせかとリスのように働き回る侍女や侍従らの姿を見て、苦く笑った。「忙しすぎますよ、陛下」思わず零してしまった独り言は、運よく誰にも聞かれることはなかったようだ。
 一月前から準備はされていたものの、やはりここ二、三日が最も過酷だった。
 神官として本来行うべき仕事に加えて、式典に際する儀式や式典そのものについての打ち合わせなどが、津波のように襲ってきた。
 どうしてこんなにも書類の山と向き合わなければいけないのか、と頭を抱えたところで山が高度を下げるわけもなく、ライナは目の下に隈を作りながら今日までやってきた。
 この国、他国からの賓客は、もう既に十日ほど前にアスラナ城へ到着している。
 そんな貴族達への接待もまた、仕事の一環としてこなさねばならぬのだから複雑だ。だが愚痴を言える立場ではないことを十分に理解していたので、きゅっと唇を引き結んでエルクディアとの待ち合わせ場所を目指した。

 この一ヵ月、互いにばたばたしていて、ゆっくり話す暇などろくに取れなかった。
 ましてやシエラと三人でいた時間など、片手で足りるのではないかというほど少ない。これではなんのための護衛だか分からなくなる。
 恨めしいくらいに晴れ渡った空から、きらきらとした光が降り注ぐ。待ち合わせ場所は騎士館の近くにある、小さな森かと思わせるところの噴水だ。
 これも庭園の一種だというのだから、初めて見たときは驚いたものだ。青々と生い茂る木々は両側から道に屋根を造るように枝を伸ばし、わずかな隙間から太陽を覗かせている。
 自然に、けれどきちんと舗装されている小道の脇には、雑草ではなく怪我に効く薬草が生えていた。
 土のにおいと、これまた薬効のある可憐な花々がずっと奥まで続いている。よく見れば太い木の幹には傷がついているのもあり、どうやらここは騎士や兵士らの鍛錬場所にもなっているようだ。
 ライナは噴水の淵に腰掛け、エルクディアを待った。控え目な水の音が、鳥のさえずりに重なって心地がいい。
 春とはいえ水辺は少し肌寒いが、耐えきれないほどではなかった。それに騎士館はすぐそこに見えている。いざとなったら、下級貴族の屋敷以上の広さはあるあの建物にお邪魔すればいい。
 親切な騎士達の顔をいくつか思い浮かべると、笑みが零れた。
 そして実感する。この国が愛おしい、と。

「ライナ! 悪い、遅れた」
「いえ、構いませんよ。わたしも、つい今しがた来たばかりですから」

 それならよかったと言って隣に座るエルクディアに手巾(ハンカチ)を差し出せば、彼は一瞬驚いたような顔をした。
 しかしすぐに笑みを深くし、額にうっすらと浮かんだ汗を拭う。

「お疲れ様ですね。お仕事、順調ですか?」
「ああ、一応。今全隊に最終連絡を入れ終えたところだ。……十番隊だけが不安だけど」
「十番……ああ、あそこですか」
「まあでも、これでゆっくりシエラの護衛に専念できるな、お互い」

 式典が終わっても、すぐに帰るのは民衆だけだ。
 王族、貴族などの賓客はもうしばらく城に留まる。そのことが少し気がかりではあるが、あとは文官や侍従らがなんとかするだろう。
 役目は終わったとばかりにライナは頷く。
 それからしばし互いの状況報告とシエラに関するいくつかの話をしながら、ライナはシエラの着飾った姿を想像した。
 蒼い髪を綺麗になびかせるのもいいが、真珠の髪飾りで纏め上げるのも品がある。背は女性にしては高い方だが、全体的に華奢な体躯だ。
 すらりとしたドレスが似合うに違いない。けれど、ふわふわと花が咲いたようなドレスもかわいいのではないか。きっと彼女は眉間にしわを刻むだろうが、ひとたび微笑めば傾国の美女の完成だ。

「ではエルク、あとは陛下からドレスを受け取って下さいね。わたしはまだやることが残っているんですが、夜には合流できま――あっ!」
「どうした?」
「エルク……その、シエラって踊れるんでしょうか? リーディング村に舞踏会が開かれるような大広間なんて、ありませんよね?」
「……あ」

 気まずい沈黙が両者の間を埋めていく。風に煽られたライナの銀髪がふよふよと泳いだが、彼らの目もまた宙を彷徨っていた。
 噴水の音が「おまえら、いまさらそんなことを」と言っているようにさえ聞こえる。いや、それは空耳だ。水は喋らない。
 やがて気まずさを誤魔化すように、二人の唇はぎこちなく持ち上がった。
 ははは、ふふふ、いっそ白々しいまでの笑みが抜け出る。

「式典の主(メイン)って……舞踏、だよな?」
「さあ……わたしはよく存じません。……では、そろそろセルラーシャ達が来る頃なのでこれで」
「え、ちょっと待てライナ!」

 こんなときに待てと言われて、大人しく待つはずがない。一度だけ振り返ってひらひらと手を振ってみせたライナは、木々の隙間から見える時計塔の時刻を確認して足を速めた。
 セルラーシャ達が来るのは嘘ではない。
 少し可哀想な気もするが、厄介事を背負ってもらうのはエルクディアが一番だ。
 それに彼ならば上手く丸め込む――いや、説得してくれるだろう。それに、実際パートナーになるのは彼の方なのだし。
 緑門(アーチ)の終わりが見え始めた頃、自分以外の足音が聞こえてふと足を止めた。がざがさと草の根を揺らしながら近づいてくる人物の姿は、逆光になっていてよく分からない。
 その体躯から見て、どうやら相手は男性のようだ。

「貴方、は……」
「ご無沙汰しております、――お嬢様」



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