邂逅1 [ 13/20 ]

*11



 こんなに長い二週間は初めてだった。
 仕事中にカレンダーを見ることが多くなり――ほとんど無意識だった――、後輩の花隈に「先輩、最近浮かれてますねー」と言われたほどだ。仕事に支障はないが、他人からそんな風に見えていたことに衝撃を受けた。
 あれから明里と何度かやり取りをして、十八日の夜は彼女のオススメのレストランで食事をし、それから佐野のバーを訪れる予定が立った。そのあとはもちろん、言うまでもない。
 ありえないほど長かった二週間が、やっと終わる。明日仕事を終わらせれば、あとはもう、待ちに待った「誕生日」だ。
 今日の夕方受信したメールで、明里は「夜にベランダ出るの禁止!」と言っていた。理由はといえば、焼いているケーキの匂いが漂うから、らしい。当日まで秘密にしたいと言っていたが、秘密もなにもないのではと思う。そんなことを言えば不機嫌になるのは目に見えていたから、下っ端兵士よろしく「了解」とだけ返し、大人しくそれに従っている。
 基本的に、自分は相手に合わせる性質らしい。ベランダでの喫煙だって、真帆に言われるがままに染みついた習慣だ。こりゃ結婚したら尻に敷かれそうだなと考えて、当たり前のようにお隣さんの姿を思い浮かべてしまったことに苦笑した。いくらなんでも気が早すぎる。まだ付き合ってもいないのに。
 時刻は午後十一時を回ったところだ。あと一時間足らずで十八日になる。そわそわしてしまう自分を「幼稚園児か」と嘲る自分がいたが、逸って悪いかと開き直る。
 飲み干したビールの空き缶を流しに持って行ったところで、玄関チャイムが鳴った。こんな時間に訪ねてくるなんて、最近では一人しかいない。でもその一人も大抵連絡を寄越してからの訪問なので、夏之は不思議に思いながらモニターを覗き込んだ。
 白黒の小さな画面に映った姿に、言葉を失う。走ったのは衝撃だけで、痛みはない。だが、もしも今空き缶を持っていたら、落としてしまっていただろう。それくらいの驚きだった。
 所在なげにカメラを見つめる姿は、二年半経った今でもそう変わらないように見えた。

「真帆……?」


* * *



「あ、意外。散らかってない。昔はちょっと目を離したら、はぐれ靴下があっちこっちに転がってたのに」
「まあ、その……」
「この冷蔵庫まだ使ってたの? 古いから変え時だって言ったのに」
「……真帆」

 勝手知ったるなんとやら。迷いなくリビングに進んだ真帆は、キッチンに鎮座している冷蔵庫を見てけらけらと笑った。同棲を始めた頃に中古で買ったものだから、最近の家電の中では年代物になるのだろう。
 ほんの数分前、「上がっていい?」と、真帆は夏之が答えを出す前に「お願い」と言って玄関に身を滑り込ませてきた。終電もなくなりそうなこの時間にどうして来たのかだとか、そんな疑問を投げる暇は与えられなかった。
 二年半経っても、愛用の香水は変わっていないらしい。真帆の香りを覚えていることに、重ねて驚いた。我が物顔でソファに座り、ぺらぺらと他愛もないことを話して傍若無人に振る舞おうとする真帆に、夏之は座ることもできずに立ち尽くしていた。
 真帆。何度目かの呼びかけで、真帆は溜息と共に夏之を見上げる。

「……急にごめん。たまたま近くにいて、それで。酔っ払っちゃってるし、駅まで辿り着く頃には終電逃しちゃってそうだし、この辺りに友達いないし、タクシーも捕まらなくて。だからね」

 尻すぼみになっていく真帆の言葉を、夏之は黙って聞いていた。問うことも責めることもしない。沈黙を貫いていると、真帆の方が先に折れた。ふるふると横に振られた頭は、もともとは綺麗に整えられていたのだろう。気合いを入れていたらしい痕跡は、髪型だけではなかった。疲れた顔を飾る化粧も、爪も、言うまでもなく服装も、すべてが「よそゆき」仕様だ。
 赤く染まった目元は、眠気や酒のせいだけではないだろう。なにかあったらしいことは、誰が見ても明白だった。

「ごめん。たまたまなんて嘘。明日、夏之の誕生日だって思い出して、それで来ちゃった」
「それだけじゃないだろ」
「……あは、分かる?」

 真帆は取れかけたつけまつげを鏡も見ずにそっと外し、そのままゴミ箱へ捨てた。少しだけ印象の薄くなった瞳が、困ったように細められる。紅茶でも淹れようか。そう言うと、すぐさま「水がいい」と返された。ミネラルウォーターをグラスに注いで差し出せば、淡いピンク色に塗られた爪が目に入る。
 隣に座ることはせず、夏之はテレビのすぐ前で床に直接胡坐を掻いた。真帆とは十分な距離がある。彼女はなにかを言いたそうに口を開いては、そのたびに水を飲んでいた。言葉も一緒に飲み込むつもりらしい。

「なにかあったのか?」
「うん、まあ、あったと言えばあったんだけど。……あ、夏之、彼女できた?」

 誤魔化そうとしているのは明白だったが、あえて夏之はそれに乗っかった。

「あー……、いや。真帆は?」
「あたし? うん。まあ。というか、タバコ、まだ外で吸ってるんだ? エライね」
「どうして分かるんだ?」
「だって、夏之からはタバコの臭いするけど、お部屋は黄ばんでないもん。灰皿だって綺麗。どうせビールの空き缶を灰皿代わりにしてるんでしょ」
「ははっ、ご名答。さすがにね、染みついた習慣は変わりません」
「そっか。そうだよね。……変わらないね、夏之は」
「お前もだろ」
「そうかなぁ? あたしは結構変わったよ? まつエクだってやめたし」
「ああ、あのサイボーグ化計画か」
「またそんなこと言う」

 夏之にしてみれば、真帆がまつげエクステなる施術に金を注ぐことが理解できなかった。当時はそれで何度も口喧嘩をしたものだ。思い返せばくだらないけれど。
 他愛もない話に、それまで緊張していた空気が若干ゆるんだ。脱いだコートを一瞥し、真帆が軽く肩を竦める。

「……あたしね、婚約してたの」

 すぐには言葉が出てこず、ようやっと繋ぎ合わせた思考回路が選んだ言葉はありきたりな「おめでとう」というものだったが、声になる前にそれは喉の奥で消滅した。真帆の表情と、過去形で紡がれた言葉の意味に気がついたからだ。結局なにも言えずに黙り込む。
 それで正解だったらしい。真帆は軽く微笑んで、グラスの水面を見つめていた。

「それで、大事な話があるって言われてね。高級レストラン。もうこれは決まった、人生の勝ち組決定! ――なんて思ってたの。まあ普通はそう思うじゃない? 朝から美容院行って、ネイルして、これでもかっていうくらいに気合い入れて行ったんだけど」

 話の落ちは大体予想がつく。
 期待に胸を弾ませていた真帆は、さぞかし愛らしく見えたことだろう。

「向こうもぴしっとした格好してて、ちょっと緊張した顔でね。ああもうこれは間違いない、って。いつ言ってくれるんだろうって思いながら、おいしいフランス料理食べてたの。もうすぐデザートっていうときに、宏樹さんが――彼がね、切り出したのよ」

 その言葉に、真帆は目を輝かせたのだろうか。
 遠くを見つめて、彼女は不器用な笑みを浮かべた。

「『海外に転勤が決まった』って。あれ、って思ったけど、これを機にってことなのかなって。あたしもほら、仕事してるけど、でも、寿退社にも憧れてたし、勤務地によってはちょっと迷うけど、海外で新婚生活もいいなぁって。一瞬でそこまで考えちゃってね。バカみたいでしょ、でもね、そんな風に考えちゃうものなんだよ」
「……それで?」
「うん。『おめでとう、どこに?』って聞いたら、スイスだって。それならまったく問題ないって、またしても一瞬で大喜び。だってオシャレじゃない? あとはもう、『結婚してくれ。ついて来い』っていう台詞を聞くだけだって思って、待ち構えてたんだけど」

 真帆はミーハーな節があったから、イメージ的にスイスは申し分なかったのだろう。
 一度言葉を区切って、彼女は大きく息を吐いた。声にはなっていないのに、こんなにも震える溜息は初めて聞いた。

「…………『別れてくれ』って、言われちゃった」
「……そう」
「うん。もうね、人間、びっくりすると日本語でも理解できないんだね。彼がどこの言葉喋ってるのか分からなくなっちゃって、でも、よくないことだっていうのは分かって、ぶっさいくな笑顔のまんま固まっちゃって。聞き返したら、頭下げられたの。『慰謝料は払う。婚約破棄してくれ』って。宏樹さんね、もうほんっとプライドの高い人で、夏之とは比べ物にならないくらい。ケンカしてもぜーったいに折れないの。そんな人がだよ? 人前で、それも高級レストランで、ケンカもしてないのにあたしに頭下げたの。信じられる? もうね、写メ撮りたかったくらい」

 実際はそんなこと微塵も思わなかったくせに、真帆は携帯を操作するジェスチャーをして一人で笑った。生憎だが笑えない。痛ましい表情になっていたのだろう。一瞬だけ目が合うと、真帆は逃げるように視線を逸らした。


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