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「……同じ部署の子のコト、好きになっちゃったんだって」
「え……」
「その子について来てくれって言ったんだって」
「真帆は、その男とどれくらい付き合ってたんだ?」

 慰めの言葉が見つからず、そんなことを聞いていた。もっと気の利いたことを言えないものかと、自分の情けなさに舌打ちしたくなる。

「もうすぐ二年。夏之と別れて半年後に付き合って、ちょうど一年くらい前に婚約したの。同棲はしてなかったけど。それでね、聞いてくれる? その同じ部署の女の子なんだけど、付き合ったのが三ヶ月くらい前なんだって。笑っちゃうよね。三ヶ月だよ、三ヶ月。――たった三ヶ月! あたしなんか、二年も付き合ってたのに!」

 声を荒げた真帆は、アイラインの崩れた瞳からぼろぼろと涙を流して立ち上がった。怒りに任せて床に叩きつけられたグラスが割れる。けたたましい音に、真帆はさらにいきり立った。泣いて喚いて、二週間前に明里がそうしたのと同じように、青いビーズクッションを夏之に叩きつける。避けた拍子にクッションはベランダの窓にあたり、カーテンを揺らした。カーテンレールが悲鳴を上げる。
 真帆とは六年間付き合っていたけれど、彼女がここまで感情を露わに憤ったことはあっただろうか。ケンカは人並みによくしたと思っているけれど、こんな風に泣き怒る姿を見た記憶は残っていない。
 真帆の言葉は、もう夏之に聞かせるためのものではなくなっていた。彼女が彼女であるために、吐き出さなければいけないものなのだろう。強いて言うなら、宏樹という男に聞かせるべきものなのだろう。

「なんで、なんでよ! だったらなんで最後に優しくするの、なんであんなっ……、大事な話なんて、言うの! 一人で浮かれてバカみたい! 『本当に好きだった』なんて、そんな言葉いらなかったのに!!」
「――真帆、少し落ち着け。怒鳴ってていいから、とりあえず座れ。ガラス踏んだら危ないから」
「命令しないで! もううんざりなの! なんでっ……、なんで、いっつも、命令口調で言ってきたくせに……、なんで、最後は『別れてくれ』なのよ! なんで、そんなお願いするの。なんで最後だけ、あたしに決めさせるのよぉっ……!」
「あぶなっ――、真帆!」

 感情に任せて一歩踏み込んだ真帆の足元に、割れたグラスの破片があった。慌てて、半ば突き飛ばすように真帆の身体を押しとどめる。足裏に走った痛みで、破片を踏んだのだと自覚した。ああくそ、あとは寝るだけだと思って靴下を履いていない今の自分を呪った。
 ソファに座った真帆が、やっと正気に返ったように夏之の名を呼んだ。左足が痛い。真帆の肩を掴んだまま、彼女を支えにして左足を上げて確認してみると、土踏まずのあたりに親指の先ほどの破片が刺さって赤く光っていた。痛みはひどいが、深さはないようだ。怖々抜いても、血が噴き出すことはなかった。

「あ……、ご、ごめん、あたしっ……」
「いーって。それより悪い、包帯取ってきてくれるか? 前と場所変わってないから」
「う、うん。待ってて」

 顔面蒼白になりながら救急箱を取りに行った真帆が戻って来る一、二分の間が、夏之にはとても長く感じた。じくじくと傷が痛む。戻ってきた真帆が消毒まできっちりと済ませ、丁寧に包帯を巻いてくれた。大きな怪我ではないから、病院に行くほどでもないし、軽く踏みしめた限りでは歩くのにも問題はなさそうだ。
 ちょこんと隣に座った真帆が、唇を真っ青にさせて震えていた。硬く握られた手を上から包んでやる。そうすれば落ち着くことを覚えていた。

「……ごめんね。取り乱した」
「気にすんな」
「夏之はほんと、慰めるの下手だよね。付き合ってるときも、たまにそれでイライラしてた。『どうしてもっと声かけてくれないの』って。……でも、そういうところが夏之の優しさだったんだって、別れてから気づいた」
「……そりゃ、どうも」

 フラれた身としては、なんと答えていいか分からない。
 肩に重みを感じて首を巡らせれば、懐かしい香水の香りが漂ってきた。一年前の自分なら、こうしてもう一度真帆に頭を預けられることを喜んだのだろうが、今ではあのとき感じていた感情はない。代わりに、もっと別の――たとえるなら、妹を思うような愛情が、静かに胸を満たしていく。
 額を肩に押し付けて、真帆はまた泣いているのだろう。震える肩を抱くことはできないけれど、代わりに強く握った手の甲を親指で撫でてやった。

「……フラれて、ショックで、それでふと思い出して夏之のトコ来たけど。でも、ヨリ戻したいとか、そういうんじゃないから、安心してね」

 その言葉に少しも傷つかないのは、心の向ける方向が変わったからなのだろう。

「少しだけ、こうさせて」
「おー、泣け泣け。全自動涙吸い取り機に徹してやる」
「……バッカじゃないの?」
 
 少しだけ笑った声はまだ泣いていて、それでも笑ったことに安堵した。嫌い別れしたわけではないから、真帆が傷ついていると心が痛む。特別な意味での未練はもうないが、彼女には笑っていてほしい。
 しばらく真帆の小さな嗚咽を聞きながら、ぼんやりしていたときだった。ガタンッとなにかが倒れるような物音がして、夏之と真帆は同時に視線をベランダへと向けた。「風?」呟くように真帆は言った。夏之も、一年前ならそう思って気にしなかっただろう。
 だが、今は。
 ――まさか。急激に指先が冷えていく。反射的に壁にかけた時計を見た。長針と短針がほぼ同じ位置に重なり――、天辺を示している。
 真帆の静止も聞かずに、足の痛みも忘れてベランダへ駆け寄って、窓を開け放った。半身を乗り出すようにして覗き込んだベランダには、当たり前のように人影はない。非常用扉の向こう側から漏れ出る明かりもない。ただ、お隣さんのベランダにいつもは行儀よく揃えられていたピンク色のスリッパは乱雑に脱ぎ散らかされ、鉢植えが無残にも倒れていた。
 風はない。――日付が変わった。今日は夏之の誕生日だ。思い上がりでないなら、彼女がここに来ない可能性はゼロではない。

「夏之? どうしたの?」
「……いや、なんでもない」

 もし、日付が変わると同時に「おめでとう」と言ってくれるつもりだったのだとしたら。
 一番最初に、祝ってくれる気でいたのだとしたら。
 明かりがついているのを見て、ベランダに来て、それで。
 それで、――夏之に寄り添う真帆と、真帆の手を握る夏之の姿を、見たのだとしたら。

「夏之、あのね、今日泊まっていってもいい? 終電なくなっちゃったし、あ、さっきも言ったけど変な気はないから」
「……悪い、真帆。タク代出すから今日は帰って」

 今の自分はどんな顔をしているのだろうか。
 一瞬きょとんとした真帆が、途端に弾かれたようにけらけらと笑いだした。

「なんだ、夏之ってば。やっぱり彼女いるんじゃない!」

 その言葉がひどく痛い。
 なにをどうしたのか、気がつけばタクシーを呼んで、真帆に万札を握らせて送り出していた。マンションのエレベーターに乗り込んで電話をかける。この時間だ。迷惑だろうという考えは、どこかに消えていた。
 何度コールしても相手は出ない。メールを送ろうとして打ち込む言葉が出てこず、結局送らなかった。

 深夜一時。
 あれほど楽しみだった今日という日が、突如として不安に変わった。

 


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