伝えたいことがあるんだ [ 12/20 ]

*10


 翌朝目を覚ました明里は、予想通りなにも覚えてはいなかった。

 一足先に起きていた夏之がレトルトの粥を作って運んでやったタイミングで、彼女は目を覚ました。夏之の姿を見てぽかんとし、次に自分の服装を見て唖然とし、さらにベッドの下に脱ぎ落された赤ジャージを見て発狂した。

「えっ、ちょっ、ええ!? なんっ、なんで、かげや、」

 ガラガラの声で叫ぼうとしたものだから、途端にひどい咳が連続する。心配と呆れがない交ぜになりながら白湯を渡してやれば、明里は涙目で受け取ってちびりちびりと流し込んでいった。
 混乱のさなかに陥った彼女に、昨夜の事情を説明してやる。
 連絡が取れないことを訝って奏に確認し、体調不良を教えてもらったこと。物音が聞こえたため、たまたま開いていたベランダから侵入したこと。――ここの順番は、あえて逆転させた。そして、倒れていた明里をベッドまで運び、彼女自身に引き止められたこと。
 話を聞く間、赤くなったり青くなったりと忙しそうにしていた明里だったが、粥を食べ終わるとぐったりと横になって呻くように謝ってきた。どうやらまだ相当しんどいらしい。

「めいわくかけて、すみません……」
「いーって。てか、なにも聞かされずに倒れられてた方が心臓に悪い。……俺ってそんなに頼りない?」
「ちがっ……! ちがいます! ほんとに、めいわく、かけたくなくて……」
「分からなくもないけどさ、なんつーの? やっぱこういうときは、素直に甘えてくれた方が嬉しいんだけど。――昨日みたいに」
「え?」
「……ほんっと、覚えてないのな」

 薬を飲ませ、ごみを回収して夏之は苦く笑った。これ以上ここにいたら、眠れるものも眠れないだろう。幸い今日は休みだ。明里がもう少し回復した頃に部屋に戻ればいい。
 リビングにいるからと言い置いて部屋を出る直前、ほんの少し、悪戯心がむくむくと目覚めてきた。これくらいならいいだろう。あれだけ振り回されたのだから、当然これくらいは許されるはずだ。「……かげやまさん?」しゃがれた声が控えめに呼んでくる。意地悪く笑って、夏之は寝室の扉を開けた。

「おやすみ、明里」

 返事の代わりに咳が響いて、どうしようもなく申し訳ない気持ちになったけれど。


* * *



 数週間が経ち、十一月に入った。
 結局紅葉狩りの話は流れてしまったが、いつでも出かけるチャンスはある。すっかり体調の良くなった明里はあのときのことについて、夏之が辟易するくらい何度も謝罪を繰り返した。それ以外に関しては、順調だ。なにをもって順調とするのかは分からないけれど、少なくとも夏之はそう思っている。
 さして珍しくもなくなった二人きりでの夕食のあと、テレビから流れる芸人の阿鼻叫喚を聞いていると、明里が物言いたげにこちらを見ていることに気がついた。二人きりの男の部屋でじっと凝視されるだなんて、相手が明里でなければ「そういうこと」だと思って動くところだ。悲しいかな、明里相手だとそうではないと気づいてしまっている。

「どした?」
「あっ、えと……。その、うー……、なんて、いうか。予定を、その、聞きたくってですね」
「予定? いつ?」

 はっきりしない物言いに合点がいかない。手繰り寄せた鞄から手帳を取り出して問うと、明里はさらに言いづらそうに視線を彷徨わせた。

「じゅ、十八日って、空いてます……?」
「十八日? 昼間は普通に仕事。あ、でも早めに上がれそうだから、夕方からなら空いてるけど。なんで? どっか行きたいとこでもあんの?」

 出かけたければ、直球で誘いをかけてくることが多い明里だ。社会人の財力に頼らなければ厳しいところでも見つけたのだろうか。そう思って訊ねたところ、彼女は二足歩行の金魚でも目にしたかのように、ぽかんとした間抜け面を晒していた。なに言ってんだコイツと言わんばかりのその表情に、もう一度手帳を確認する。
 十八日。金曜日。特にイベントはない。――イベント?
 手帳の左上に視線を滑らせて、そこに書いてある数字を見て納得がいった。十一月十八日。多くの人間にとってはただの平日だが、夏之にとっては確かにイベントのある日だ。

「別の日じゃ駄目?」

 分かっていて聞いた。意地の悪い質問だと思う。
 案の定、明里は困ったような顔をして、そしてすぐににやにやと笑う夏之に気づいて眉を吊り上げた。

「もうっ、影山さんっ! 怒りますよ!」
「女の子がそう言うときって大抵怒ってるよな。いてっ、悪かったって! ごめん! クッションでも当たると痛いんだから、振り回すなって! あいてっ」
「分かってて言う方が悪い! それで!? どうなんですか十八日! 空いてるんですか、空いてないんですか!?」
「ごめんってば。うん、空いてる空いてる。てか空ける」
「……他の誰かと、ご予定は」

 たった今まで武器にしていた青いビーズクッションを大事そうに抱え、明里はぼそぼそとそんなことを言った。真帆と別れてから、誕生日を誰かと過ごすことなどしなかった。一人でケーキを買うのも寂しいし、母親からメールが来てやっと気づくくらいなものだ。誕生日ではしゃぐ年齢でもなくなった今となっては、さほど珍しいことでもないだろう。
 本人ですら気に留めていなかった誕生日を明里が覚えていて、その上こうして予定を聞いてくるということに、胃のもっと奥の方がきゅっとなった。本当にもう、どうしてくれようか。
 答えない夏之を不安そうに見つめる目は、もうただのお隣さんを見る目ではなくなっている。自分はさほど鈍感でもないから、彼女の気持ちもなんとなく察してはいる。こんな美人がと考えると腰が引けるが、いい加減ぬるま湯に浸かった関係では彼女にも失礼だろう。
 『明里はあれでいてあんまし男性経験ないんですよ。やから、めっちゃ奥手の恋する乙女。王子様待ってるタイプやから、夏さんなんとかしたってや』奏のありがたい忠告を思い出し、そのとき彼女が飲んでいたヴァイオレットフィズの見事な紫色まで思い出した。あのときマスターの佐野が言っていた、リキュールのうんちくはなんだったろう。確か女の子の好きそうな逸話があった気がする。
 思い出そうとしてぼんやりしていると、唇を尖らせた明里に膝をつつかれた。思わず笑みが零れる。

「ない。十八日は、仕事と、たった今入った予定で埋まってる。他にご質問は」
「……食べたいものとか、欲しいものはありますか」
「ラーメン。――うそうそ、睨むなって。食べたいものは特に……、あ、ごめん嘘。一つだけある。ケーキ食いたい。チョコレートのやつ。ロウソクはいらないけど」

 できれば、手作りの。
 明里と出かけるようになって何度かカフェにも入ったが、夏之自身が積極的にケーキを注文することは稀だった。甘いものが苦手というわけではなく、むしろ好きな部類だが、自ら進んで食べようとも思わない。そんな程度だ。
 だが昔、誕生日に母親が買ってきてくれたケーキは決まってチョコレートケーキだったのを思い出してしまい、無性に食べたくなった。明里はお菓子作りも得意だから、きっとケーキだって上手く焼いてくれるだろう。
 誕生日プレゼントは好きな女の子からの手作りケーキ。完璧じゃないか。
 快諾してくれるかと思っていたが、意外なことに明里は少しだけ迷うそぶりを見せた。自覚なく零した彼女の一人言いわく、「バレンタインに作ろうと思ってたのに」とのことで、三ヶ月も先のイベントを考えていた健気さに胸を打たれる。すぐにでも抱き締めてしまいたかったが、ぐっとこらえて、代わりに彼女が抱き締めるクッションを取り上げた。

「あっ、もう……。でも、本当にそれだけでいいんですか? 他にほら、お財布とか、ネクタイとか……」

 ありきたりなものしか例に出してこないあたり、本当に男性経験がないらしい。

「必要なら自分で買えるし、問題ない。うまいもん食えりゃそれで十分。それともなに、欲しいっつったらなんでもくれんの?」
「正直値段にもよりますけど、でも、私が用意できるものならなんでも!」

 馬鹿だ。
 頭の中身は上等にできているはずなのに、どうしてこうも簡単に引っかかるのだろう。

「なんでも、ね。そんじゃ、泊まってく?」
「へ? ――え、あ、ッ、ば、馬鹿じゃないんですか!?」
「ぶっ、あははははっ! か、顔、真っ赤!」
「笑うな! もぉ知らん! 帰る!」

 耳どころか首まで赤く染まった姿を見ていると、経験はないくせに意味はしっかりと理解できる優秀な頭が可哀想だと思ってしまう。すっかりへそを曲げてベランダに向かおうとする明里に、またしても腹の底から笑いが込み上げてきた。
 思わずフローリングを叩いてしまったが、階下に響いていないだろうかと不安になる。これくらいなら許してくれるだろうか。まだ九時だ。下の部屋に小さな子供はいなかったはず。

「明里、今日は玄関から来たろ?」
「あっ!」

 明里が長時間夏之の部屋に来る際、たとえ開通したベランダとはいえ開けっ放しにするのは危険だということで、きちんと戸締りをした上で玄関から訪問するように言い聞かせている。それでもまっすぐにベランダに向かってしまうのは、それだけあそこが通用口としての意味を占めているのだと思い知らされた。
 泣きそうなくらい顔を赤らめて玄関へと踵を返す明里の手を座ったまま掴み、引き止めた。軽く握っただけだ。振り払おうと思えば簡単にそうできるのに、彼女は子供でもできるようなことすらしない。いじけた幼稚園児みたいに顎に梅干を作って、精一杯の鋭い視線で見下ろしてくる。
 小さい手だ。柔らかくて頼りない。それでいて武道に秀でているのだから、人は見かけによらないとはこのことか。
 掴んだ手に少しだけ力を入れれば、明里はぴくりと身体を震わせた。身体は正直――だなんて、オヤジくさい台詞が脳裏に浮かぶ。

「明里」

 呼び捨てにしてほしいと言ったのは明里のくせに――本人はそれをまったく覚えていないが――、あれから何週間経ってもそれに慣れる気配はない。呼ぶたびに恥ずかしそうに目を反らして、わざわざ肩を震わせて、少しだけ間を置いて返事をする。
 土に水がじわじわと浸透していくようなその間が、夏之は嫌いではなかった。

「……なんですか」
「十八日さ、泊まんなくていいから、帰ってきたらうちに寄って。外でメシ食って、そんでここでケーキ食おう」
「そーですねー」
「佐野さんトコのバーで一杯やってから帰ってこよう」
「そーですねー」
「誕生日だっつったら、なにかサービスしてくれるかもしんないし」
「そーですねー」

 ぶっきらぼうに同じ台詞しか返さない明里は、拗ねていることを見せつけたいのか顔を背けてこちらを見ない。上等だ。玄関を薄目で見やるその顔が、次の台詞でどう変わるのかが楽しみだ。

「そんで、伝えたいことがあるから、ケーキ食ったあと聞いて」
「そーで、……え?」

 今まで言わなかったのは、勇気が出ないとか、好きじゃないとか、待っていたとか、そういうわけじゃない。ただなんとなく機会を逃していた。長すぎると自分でも思うが、名前のつかない曖昧な関係が心地よかったというのもある。女の子の側からしてみれば、それはとてもひどいことなのかもしれないけれど。
 だが、もうそろそろ名前をつけてもいいんじゃないかと思った。結果が見えているだなんて思い上がりも甚だしいことを言うつもりはないが、これ以上はないくらいに顔を赤らめた明里を見ていると、十八日とは言わずに今すぐ言ってしまいたくなる。
 軽く握った手が震えている理由くらい、自惚れてもいいだろうか。
 明里はなにも言わず、ただただ驚いたように夏之を見つめ、一瞬だけ泣きそうに顔を歪めた。唇が噛み締められて、――今まで見た中で一番幸せそうに、微笑んだ。

「……そーですね」

 上擦った声。「よし、じゃあ決まり」これ以上はたまらない。手をほどいて、玄関へと明里を送っていく。あと一分一秒でも長居されると、降り積もった思いが雪崩のように口をついてしまいそうだったからだ。
 お隣さんのドアが閉まって、鍵のかかる音を確認してから自分も鍵をかける。
 そう急ぐな、心臓。高校生じゃないんだから。
 ベッドに突っ伏して自嘲すれば、枕元で携帯が震えた。メールだ。表示された名前に口元が緩む。

『十八日、楽しみにしてます』

 楽しみにしているのはこっちの方だ。
 誕生日まで、あと二週間。
 こんなにも誕生日を待ち遠しいと思ったのは、小学生の頃以来だった。

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