月が、綺麗な夜だった。
天狐月乃女は、ふと、その四尾を揺らした。今この地には、もとより宿る神と月乃女の存在しかないはずだった。神域に独自の結界を張り巡らし、あやかしや猫の子一匹入ることのできぬようにしたはずである。
なれど確かに感じた歪みに、月乃女は眉を寄せる。漂ってくるのは僅かな神気だ。
どういうことだ。
立ち並ぶ鳥居の上を跳ね、気高き天狐はその根源を探った。
「……ほう」
まだあどけない顔をした少年が、月光の下で鳥居に背を預けてうつらうつらとしている。どうやら人の子だ。だが、その気から感じるに、ただの人の子ではないらしい。まあもっとも、この地に足を踏み入れた時点でただの人の子ではないのだが、その事実は少なからず月乃女の興味を引いた。
どうやら少年は疲れ切っている。そのまま寝かせてやる義理などあるはずもないので、蹴り起こしてやろうかと思案していたときだった。ぱちりと少年が目を覚ます。
「貴様、どこから来た?」
少年は緊張したように目を丸くさせ、口元をきゅっと引き結んだ。その口から、魂を抜き取られまいとしているかのようだ。
この苛烈な神気に当てられ、怯えて泣きだすのだろうか。
「ずっとずっと遠くから」
少年はそう答えると、何度か瞬いて鳥居に再びもたれかかる。
――ほう、面白い。くつりと月乃女は喉の奥で笑った。
「ちからが戻れば、帰ります。どうかそれまでは――」
脆弱な人の子が、それに相応しい声で乞うてくる。だが、弱々しい声とは裏腹に、少年の中にあるものは強かった。
ずいと近付いて覗き見れば、少年が言葉を詰まらせた。額に汗を浮かべ、僅かに身体を跳ね上げる。けれどその唇から悲鳴などは漏れず、ただただ、まっすぐに月乃女を見つめ返してくる。
「貴様、なにやら面白い力を持っているな」
「大したものでは、ありませぬ。あなたさまに、比べましたら」
少年の目が、耳と四尾に移動する。ひょんとそれを揺らしてやると、少年は震える息を吐いた。
「ほう、我が分かるか」
ますます面白い。この少年の身体に纏わりついている気は、この世のものではない。かといって、怨霊共が纏うような、いわゆるあの世――冥府のものでもない。これはおそらく、異世のものだ。どこから湧いてきたのだろう。この人の子は、なんのために。
疲労からもつれたのか、たどたどしく少年は言った。
「わからないほど、おろかでも、ありませぬ」
そこでようやっと気がついた。今、少年はとてつもなく眠いらしい。口ぶりからして、その身に宿した力が暴走したのだろう。異世へ飛んできたのか、はたまた飛ばされたのか、どちらにせよ力を使い切った少年の身体は、休息を求めて睡魔が手を招く。
今にも瞼を落としそうな少年を前に、月乃女はくつくつと笑って四尾を揺らした。ひょん。ああ、面白い。
どうしてそうしようと思ったのか、分からない。
なれど、自然とそうしていた。
少年の小さなおとがいに指を添え、つ、と持ちあげる。とろりとしたまなこが月乃女を捉えた。
「覚えておけ。我は天狐月乃女だ」
つきのめさま。
少年は確かめるようにして、そう呟いた。呼ばれた名に、月乃女の魂が僅かに反応する。やはり、この少年は面白い力を持っている。月乃女を縛るには程遠いが、それでも確かな言霊が魂に触れた。
天狐には、様々な出来事を見透かすことのできる千里眼が備わっている。強力な神通力を持ち、神格化した狐の目には、あるものが見えた。
――この少年、死なせるには惜しい。
名を。視線だけで促した。少年は、月乃女にしか聞こえない、吐息のような声で告げた。
「わたしの、まなは――」
鳥居に寄りかかり、どこか安心したように寝息を立てる少年を見つめ、月乃女は口元が歪むのを自覚した。真名ときたか。喉の奥で零れた笑いが、次第に外に大きく漏れ始める。いっそ、腹を抱えて笑いだしたい気分だ。
「この天狐月乃女に真名を告げるか、小僧」
いっそ、今しがた教えられた真名で、その魂を縛りつけてやろうか。
ここで殺すには惜しい。ならば飼殺してやるのも面白そうだ。
否と、月乃女はかぶりを振った。そうすることは、先ほど「視た」ものを奪うことになる。あと幾年先の話か、分からない。この少年は、異世の存在だ。明日かもしれないし、千年先かもしれない。
そもそも、「視た」からといって、それが現実になるとは限らない。
それでも確信があった。
――この少年とは、再びあいまみえるのだと。
山が鮮やかに染まっている。真珠を練り込んだような純白の衣をなびかせ、月乃女は自らをも染める夕暮れの光に目を細めた。
伸ばした指先が夕焼け色に染まる。
最後に燃え盛る太陽の向かいには、うっすらと月が浮かんでいた。黄昏だ。日が沈めば、逢魔ヶ刻となる。――なにが起こっても、不思議ではない時間だ。
月乃女は笑った。
かさり。背後で、夕焼けと同じように色づいた落ち葉が踏みしめられる音がする。月乃女は、この葉が気に入りだった。そして大抵の人の子も、これを大層好んでいるようだ。秋になれば、わざわざ山まで踏み入ってくる。神域を荒らされることは不快だったが、人の子が供えていく神酒はなかなか美味いものもあったので、それだけは良しとしていた。
夕暮れの色に似た、鮮やかな紅葉。まるで雪のように地面に降り積もるその中に、天狐月乃女は佇んでいた。
「――随分と、遅かったな」
背後に立った気配が、びくりと揺れた。耳に届いた吐息は、どこか期待に満ちている。
「見ろ、貴様に似合いの景色だろう。まさに、暮れの葉だ」
風が吹くたびに、ひらり、はらり、舞い落ちる紅葉は、暮れる日の色をしている。
そしてこれがすべて振り落ちれば、世界を冷たく閉ざした冬が訪れる。夜の長い凍てついた冬は、まるで一日の終焉と似ていた。すなわち、秋は夕暮れだ。暗く凍える冬に備えて、最後に赤く、暖かく、燃え盛る。
――本当に、面白い。
ぎこちなく名が呼ばれた。それは耳に残っているものより、少しだけ変わっていた。覚えていたか。振り向くと、そこには一人の人の子がいた。青年になったばかりのような、そんな頃合いだ。身の内に秘めた力が、強さを増している。漂ってくる気が、随分と美味そうだ。
あっという間に、大地を赤く塗り替える太陽が沈んだ。月がその勢力を増す。人の子は、遠慮がちに近付いてきた。身の丈は、もうさほど月乃女と変わらぬだろうか。
「…………やっと、お会いできましたね」
柔らかな笑みに、くつりと笑う。
赤く色づく木々を見上げて、月乃女は目を細めた。
紅の葉。暮れの葉。
人の子の言葉は、まことに面白い。
赤く色づくその葉が、
ひらり、天狐の手中に舞い落ちる
(そら椛、酒を告げ)
(飲みすぎは体に毒ですよ、月乃女さん)
(感謝! 椛さま&黒音さま!)