出雲の神に乞え


「ねえ、おきつねさま」

 四季の国にある、平安の時。本来自分達が過ごしている次元は、とある森の門番によってそう呼ばれていた。その次元には存在しない、喉の粘膜を焼くような洋酒を舐めていた月乃女は、遠慮がちにかけられた声にぴくりと耳を動かした。
 銀毛四尾の天孤月乃女。大層美しい姿をしているが、人にあらざる耳と尾が、容易に人を近づけない。それでもまとわりついてくる奇特な人間の一人が、気まぐれに拾ってやったこの少女だ。
 息子ユキシロの代わりに異なる次元に渡った、ただの人の子。
 本来とは異なるさだめを生きる、ただの野兎。
 それが今、ほう、と生意気にも色を含んだ吐息を吐いて、月乃女の隣で空を仰いでいる。

「なっくんが、ちょっと変なんです。最近、ずうっと。晴明さまのお話をすると、すぐどこかへ行ってしまって。……すぐ、怒っちゃって」

 くろあちゃんは、変わらないのに。

「わたし、嫌われちゃったんでしょうか……」

 水干姿から、ひらりとした洋装に衣服を変え、つきのとは抱えた膝に顔を埋めた。
 つい先日、つきのとの文を晴明に届けてやった際に、彼がなんともいえない表情で筆を取っていたのを思い出す。「なあ月乃女、やっぱりお前の息子ぶっ飛ばしていいか」ユキシロが異夜荘に渡っていたなら、つきのとは今も彼の手元だった。
 幼いばかりだった童女はそれなりに背が伸び、よく跳ね回る足はすらりとしている。艶やかな黒髪も丁寧に手入れされ、小汚い童女から、路肩の花程度には成長した。
 晴明の心情など、月乃女には知ったことではない。いい女を手放したと悔いているのか、妹あるいは娘を手放す親心に揺れているのか。
 どちらにせよ、それを悩むのは月乃女ではなく当人達だ。自分には関係がない。

「野兎、いいことを教えてやろうか」

「なんですか?」

「そのガキに嫌われていないかどうかを確かめたくば、じぃと見つめてやればよい。なにも言わず、ただじぃとな」

「見るだけ、ですか?」

「ああ。……そうさな、それが物足りぬなら、こうしてやればよかろうて」

 くつりと喉の奥で笑った月乃女の意図に、つきのとが気づくわけもない。
 一通り「いいこと」を教えられた少女は、嬉しそうに笑って礼をした。

「ありがとうございますっ、おきつねさま! 早速なっくんのところに行ってきます!!」

「行ってこい。……そうだ野兎、気をつけてな」

「へ? えと、はい!」

 びしっと敬礼し、つきのとはとんっと軽い足取りで木の枝から飛び降りた。幼い頃から月乃女を追って木登りをしていたせいか、このくらいは朝飯前になっている。
 しかしあの頃と違って、今つきのとが着ているのは、いわゆるスカートだ。ひらり。風を含んで広がった布の奥で、張りのある太股と淡い色の下着が露わになる。
 それを見て、さらに堪えきれない笑いがこぼれた。おもしろい。晴明にも見せてやりたいものだ。
 洋酒をやめ、日本酒の一升瓶に手を伸ばした月乃女は、ふと近づいてくる気配に気がついて視線をやった。

「椛か」

「また来ていらしたんですね、月乃女さん。……ですが、あまり子供をからかうのは、ちょっと」

「くくっ、心外だな。あれはもう子供ではあるまいに。それとも、異界の者と情は交わさせたくないか?」

 ふわ、と酒瓶片手に舞い降りた月乃女は、微苦笑を浮かべる椛の耳元で囁くように問う。
 しかし甘美な誘いに微塵も揺らぎを見せず、椛は笑顔で月乃女を制した。

「いいえ、そうではありませんよ。もう随分と飲んでいらしたんですか?」

「否。雀の涙程度なものよ」

「……その割には、随分とたくさんの瓶が転がっていますね」

 月乃女が座っていた木の根本には、何本もの酒瓶が転がっていた。割れていないのが不思議なほど乱雑に散らばったそれを見る限り、ひとりで飲んでいたとは思えない量だ。
 うっすらと赤く染まった目元を見て、椛は小さく息をついた。

「部屋を用意しましょうか? どうせ今日は、泊まっていかれるんでしょう?」

「ああ。だがお前の部屋でいい。異論はなかろう?」

「ないわけではないんですけどね」

 鋭い爪の備わった指が、するりと椛の喉元を撫で上げる。縦に避けた金の双眸が、妖しく光を灯した。
 酒気を交えた吐息に椛の名を乗せ、それ自体が言霊だというように直接耳に溶かし入れる。熱い舌先で耳朶に触れ、月乃女は抵抗も受け入れもしない男の頬を両の手で挟んだ。
 欲を隠そうともしない獣じみた舌なめずりが、人間と天孤の違いを際立たせる。

「――異論はなかろう?」

 唇を掠めた匂い立つ花の妖しさに、椛は苦笑せざるを得なかった。

「ええ、そうですね。……ようこそ、異夜荘へ」



月から降りてきた女が、天女とは限らない



(お前が旨いのが悪い)
((狐さんの姿ならかわいいんですけど))

(ただい……あれ? つきちゃん、どうしたの?)
(あっ、え、えっと、あ、くっ、くろあちゃあああああん!!)



※出雲の神=縁結びの神



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