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『軍人舐めんな、腹黒眼鏡!』

 未だかつて、そんな乱暴な物言いはニノカタ以外にしたことがない。あんな自分を見せたのは、後にも先にもあの忌々しいフローリストだけだった。
 そのはずだったのに。

『みんなには黙っとけばいいの? 別に誰にも言わないけど』

 アイラインも引いていないのにぱっちりとした大きな瞳が、興味なさそうにこちらを見つめていたのを思い出す。ありえない、本当にありえない。いや、ありえてはいけないことだった。ワカバはいつだって「ワカバちゃん」でなければならず、それを崩すことは自分が自分でなくなるということだった。
 ニノカタ相手にそれを許してしまったことは、一生の不覚だ。唯一の例外は彼だけにするつもりだったのに。
 掛け布団を頭の上まで引き上げ、ベッドの中で一人もんどりうつ。眠れない。昨晩の光景が何度も何度も頭の中で繰り返され、そのたびに叫びだしたい気分になる。
 どうしてなんで、よりにもよって! きつく唇を噛み締めていると、起床時間を告げるラッパの音が高らかに鳴り響くのを聞いた。どうやらもう朝らしい。結局一睡もできなかったワカバは、ふらふらになりながらベッドを抜け出したのだった。


act.4:未知との遭遇


 こんなにもゼロから目が離せなかったのは、入学以来初めてだ。彼が誰かと話すたび、ワカバの失態を告げ口するのではないかと心臓がひやりとして落ち着かない。ここまで精神力が削られた一日は今までなかった。
 徹夜したせいで肌の調子は悪いし、髪だって乾燥していて上手く纏まらなかった。座学の間には尋常ではない眠気に襲われ、そのたびに手の甲に爪を立てて必死に睡魔を追い払う羽目になった。そんなワカバの必死の努力を嘲笑うかのようにゼロはぐうぐうと居眠りをしていたし、操縦シミュレーションでは文句なしの成績を叩き出していた。
 昼休み、食堂でゼロを含む男子学生達が大盛り上がりをしていたときには、「終わった」と絶望した。完全にばらされた。――明日からどう立ち回ろう。面倒くさいのが現れたらやだな。そんなことを考えつつ、無理やり昼食を胃に押し込む。
 こうなるともう、午後からの訓練が憂鬱で仕方なかった。なにを言われるかと覚悟していたワカバに、近づいてきた男子学生達がいつものように挨拶をして去っていく。ただの世間話をしていったり、ワカバを褒めたり、いつもと変わらない。
 誰もなにも言ってこないのが不思議だった。もしかして、彼らはなにも聞かされていないのだろうか。恐る恐る探ってみたところ、ゼロからワカバについての話を聞いた覚えはないとのことだった。

「……どういうこと?」

 言っていないだけなのか、それとも、ばれていないのか。いや、そんなはずはない。ゼロにはあの瞬間をはっきり見られたはずだ。「みんなには黙っとけばいいの?」とも言っていたではないか。ばれていないはずがない。なら、これはどういうことだろう。
 落ち着かないまま午後が終わり、訓練や授業からも解放されて自由時間を得た学生達がぞろぞろと寮へ戻っていく。誰もなにも言わない。ゼロもシュミットも、他のみんなもいつも通りだ。
 ――なにか企んでるの?
 疑心暗鬼に陥り、ゼロを見る眼差しに険が宿る。もうこの気持ちのまま過ごすのはうんざりだ。このままだと今夜もきっと眠れない。忙しなく血液を吐き出す心臓を胸の奥に感じながら、ワカバは意を決してゼロの個人端末にメッセージを送信した。
 すぐに返信が来る。画面に表示されたのは、シンプルにたった一言「分かった」だけだ。そのシンプルさが逆になにか裏を含んでいそうで、さらに落ち着かなくなる。なにはともあれ、呼び出すことには成功した。じっくり話し合って、それから今後のことを考えればいい。

 憂いを押し隠す笑みを浮かべてさりげなくその場から立ち去ったワカバは、指定した校舎裏へと移動した。ここはひと気がなく、植え込みがあるために誰かが通ってもあまり姿を見られることはない。
 夜風を感じながら空を見上げていると、闇の中にぼんやりと浮かぶ青白い光が近づいてきた。一瞬どきりとしたが、それが端末の光だと気がついてほっと胸を撫で下ろす。どうやらゼロは携帯ゲームをしているらしい。それでも指定通りの時間にきっちり来てくれたので、妙なところで律儀だと感心する。
 ワカバに気がついたゼロは、「ごめん、今いいとこだから」と言って端末から目を離さなかったけれど。

「あ、あのね、ゼロ……」
「なに?」
「こ、こないだの、ことなんだけど」
「こないだ?」

 この態度は、弱みを握ったことによる余裕の表れだろうか。捻くれた考えに囚われて気持ちが沈むが、こうなってしまったらどうしようもない。すべては自分が蒔いた種だ、伸びた芽は自分で刈り取らなければならない。
 とはいえ、なかなか決心がつかず何度も口籠ってしまい、時間だけが無駄に過ぎていった。パズルゲームに夢中らしいゼロの端末から、不細工な猫の鳴き声だけがひっきりなしに聞こえてくる。

「え、えっとね、だからね、その……」
「だからなに?」
「お、覚えてない? あの夜の!」
「夜? ……ああ、ワカバが事件に巻き込まれた日?」
「そう! その日のこと!」

 せっかくそこまで言えたのに、ゼロは端末から目も離さずに「それがどうしたの」ときた。答えに迷い、言葉が出てこない。空腹の犬のように小さく唸っていると、やっと端末をポケットに仕舞ったゼロが溜息と共に視線を投げてきた。


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