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 三ヶ月ぶりのリユセ基地だ。ここはナグモにとって、第二の家だ。それなのに、まったく知らない場所のようにすら感じる。突き刺さる視線が痛い。どこか恐怖の念すら感じられ、その原因に思い当たって失笑が漏れた。
 いくら緘口令が敷かれたとはいえ、リユセ基地の人間はおおよその話を聞いているのだろう。青磁の人間に感染の可能性があったことも。

「そりゃ怖いよね。……でも、私の方がもっと怖かった」

 あんな写真を見せられて、お前もこうなるかもしれないと聞かされて、なにもない部屋でたった一人取り残されて。毎晩悪夢にうなされて、飛び起きて。
 夜が怖かった。眠れば、悪夢を見るから。
 朝が怖かった。日が昇れば、カラスがやってくるから。
 もう限界だった。やっと解放されたと思ったのに、これだ。自分がこんなにも弱い人間だとは思ってもいなかった。小娘じゃあるまいし、こんな簡単に崩れたりするだなんて。
 どこに向かうわけでもなく、ふらふらと基地内を歩きさまよう。擦れ違う隊員は誰もナグモに声をかけようとしない。一定の距離を開け、そそくさと離れていく。
 ――ああ、もうだめだ。
 そう思った瞬間、ぐいっと強く腕を引かれ、ナグモの身体はあっという間に暗がりに引きずり込まれた。状況を把握する暇もない。乱暴なほど勢いよく壁に背が押しつけられ、無理やり仰向かされて唇を奪われる。抵抗の意思は、鼻先をくすぐる蜜の香りに奪われた。
 驚愕に瞠った双眸に映り込んだのは、セイランその人だ。

「ちょっ、なにして、……っ!? ここ、ろー、か!」
「ええ」

 人通りが少ないとはいえ、いつ誰が通るか分からない場所だ。こんなところ、誰かに見られたら。
 そう思って必死に腕を突っぱねたが、セイランは巧みに手を絡め、呼吸さえ奪うキスで動きを封じ込めてくる。完全にナグモの力が抜けたのを見計らい、彼は強く抱き締めてきた。
 セイランも少し痩せただろうか。腕の中に納まりながら、そんなことを思う。
 三ヶ月ぶりの体温が、じわりじわりと染み込んでくる。かさつく指先に頬を撫でられ、くっきりと隈の浮かんだ目元に唇が降ってきた。

「――ナグモ。僕は、君を失いたくない」
「え……?」
「艦長としては失格ですね。でもね、嘘偽りなく君を愛しています。だから、」

 甘いはずの睦言が、どこか苦い。
 骨が軋むほど強く抱かれ、首筋に落ちる吐息が肌を嬲った。セイランは確かに今までも睦言を惜しまない人だった。聞いている方が恥ずかしくなるような気障な言葉を、惜しげもなく紡いでくれた。だが、これは今までのものとは違う。
 ――やめて、お願い、離さないで。
 重なる唇の間に、塩辛い雫が滑り込む。熱い舌を絡められ、口づけが深くなればなるほど、距離が遠ざかるのを感じていた。手のひらから零れていくものを必死で追いかけようとするのに、止まってはくれない。
 ――私はまだ頑張れる。ここで潰れたりなんかしない、折れたりなんかしないから。だから、ねえ、お願い。離さないで。
 ナグモがどれほど身を捩って離れようとしても、セイランはそれを許さない。きつく掻き抱き、熱を高めるように優しく囁く。

「ねえ、ナグモ。君は捕まってはいけないよ」

 キスも声も、どこまでも甘いはずなのに、痺れるほどに苦しい。

「…………セイラン艦長、ナグモ曹長。これはどういうことですか」

 あれほどナグモを雁字搦めにしていた蜘蛛の糸が、その瞬間ぷつりと切れた。


* * *



 どんな小さな蝶の羽ばたきも、世界のどこかで嵐を巻き起こすのだという。
 あの人はナグモを蝶のようだと言った。だとすれば、ナグモの行動はどこかで嵐を呼んでいるのかもしれない。
 リユセ基地司令に「逢瀬」の現場を押さえられた二人は、隊規違反を犯したとして処分を受けた。あんな事件の後だ。艦長であるセイランはほぼお咎めなしだが、ナグモはヴェルデ基地へと移動になった。当然、あの一件の口外は許されていない。

「あーあ、もー、ほんとやんなっちゃう。なーにが『失いたくない』だっての」

 あのままリユセ基地に残れば、ナグモが潰れるのは時間の問題だった。セイビに食ってかかったことにより、事故調査委員会からの言いがかりに等しい追及はますます激しくなっていただろう。遅かれ早かれ壊れていたに違いない。
 だから、セイランはあんな行動に出たのだ。あの時間に、基地司令があんな場所を偶然うろついている可能性など限りなく低い。あれを偶然と考えるには随分と出来過ぎている。
 隊規違反として内部処理されたナグモに、カラスの追っ手はなかった。向こうとしても情報が漏れるような事態は避けたかったのだろう。あるいは、それほどの手間をかける価値もないと思われたか。
 ヴェルデ基地はヴェルデ基地で「あんなこと」があったばかりだから、隠れ蓑にするにはちょうどいいとセイラン達は判断したのだろう。その読みは見事に的中し、誰もが英雄達に夢中で中途半端な時期に移動してきたナグモの事情を深く探ろうとする者はいなかった。

「……ヒミツの恋、ばれちゃった」

 苦笑が漏れる。
 カラスにつつかれて翅が千切れる前に、蜘蛛はあっさりと蝶を解き放ったのだ。
 遠くへ飛んでいけと、言い置いて。


 今もまだ、悪夢を見る。
 それでも前を向いていられるのは、いつも必ず、最後に甘い蜜の香りが漂うからだ。


(2014.05.07)


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