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 久しぶりに嗅いだ埃っぽい空気に、嫌悪するよりも先に安堵した。
 廊下の窓に差し込む陽光に手をかざす。――生きている。手はかさつき、肉が落ちたが、それでも皮膚が爛れて腐り落ちるようなことはなかった。同じ艦の誰かが発症したという話も聞かない。
 ウイルスの潜伏期間も過ぎて安全が保証された今、やっとあの部屋を出ることができた。
 三ヶ月という時間の長さは、ナグモの気力と体力を削り取るのには十分すぎた。外に出た瞬間、三ヶ月前よりも確実に筋力の衰えた足は大きくよろめいた。
 そのまま前のめりに倒れかけ、誰かに受け止められる。職員か誰かだろうとぼんやり見上げれば、そこには悲しげに歪む薄茶の瞳があった。

「セイランっ、」

 人目があった。名前で呼ぶつもりはなかった。ちゃんと「セイラン艦長」と呼ぶ気でいたのに、それができなかったのは喉が詰まったからだ。言葉の代わりに溢れた涙を見て、セイランはしっかりと肩を支えてくれた。抱き締めるような真似はしない。「大丈夫ですか」艦長としての声音で、そう訊ねられる。
 大丈夫じゃない。そう言って大声で泣きじゃくり、胸の中に飛び込んでしまいたい。一人で立つことがこんなに苦痛だなんて、これまで知らなかった。
 地獄のような三ヶ月を経て今もなお続く命に対する安堵、確実に落ちたであろう飛行技術の不安、そして――。

「たい、ちょう、がっ……!」
「……ええ」
「なんでっ、なんで!!」

 嗚咽に重なる足音に、反射的に震えが走った。セイランは躊躇いなくナグモを背に庇い、他の隊員達もナグモの前に出る。皆が皆、疲弊しきっていた。誰もがやつれ、不恰好に伸びた髪を無造作に撫でつけ、ギラギラと不穏に瞳を光らせている。
 その視線の先に、上から下まで見事に真っ黒なスーツの男達が列をなしていた。
 ――カラスの大群。
 青空ですら闇に染め変える、忌々しい存在だ。

「セイラン艦長。並びに、青磁諸君。――このたびの一件について、一切の口外を禁ずる。これは国家軍政省緑花防衛大臣からの厳命である」

 白髪交じりの男が読み上げた文面は、今まで閉じ込められていた部屋と同じくらい無機質なものだった。
 ナグモに対する執拗な聴取は、ある日突然ぴたりと止んだ。それがおよそ二週間前だ。いつもと変わらずセイビが現れ、ナグモに淡々と言い放った。「犯人は感染研の人間でした」と。
 なにを言われたのか理解できなかった。なぜそんなことを言われたのかも理解できなかった。
 あとになって少しずつ組み立てていった内容を纏めるに、ウイルスをばら撒いて集団感染を引き起こした犯人は、感染症研究所の人間だったらしい。感染研の男は漂流者を装って青鈍の艦に救助され、そしてあの艦で悪魔を解き放った。
 青鈍の記録から、要救助者を発見・救助したのはスイセイだったようだ。それが判明してもなおスイセイは協力者ではないかと疑われていたが、感染研に別の協力者がいることが判明し、スイセイの無実が証明された。
 その協力者は、ウイルスを盗み出そうとしたところを取り押さえられたらしい。――彼は、緑花防衛大臣の親戚だという話だ。
 緑花防衛大臣の迅速な判断と指示でウイルスは特定され、対策はなされた。パンデミックは未然に防げたというわけだ。
 実によくできた茶番だ。
 鼻で笑ったその瞬間、セイビは明日の天気でも話すかのような口ぶりでとんでもないことを告げてきた。

『リュウセイ二尉が亡くなりました』
『……は? なに言って、』
『舌を噛み切って死んでいるところを、今朝発見されたようです。遺書はありませんでした』

 意味が分からない。なんでそんな嘘を吐くのだろう。
 セイビの視線は相変わらず手元の端末に落とされていて、ナグモを見ようともしなかった。他にはなにも言わず、彼は立ち去った。なにか問うことも許されなかった。
 三ヶ月前、リュウセイと交わした馬鹿みたいな会話が脳裏をよぎった。
 ――リストランテ・セラドンのランチ、まだ食べに行ってない。きっとメニューだって変わってる。だって、あそこ、季節のパスタとか出してたし。調べなきゃって、思ってたのに。約束、したのに。馬鹿な委員長、舌なくしたら食べらんないじゃない。せっかく高いご飯食べに行くのに、なに考えてんの。馬鹿じゃないの、委員長。馬鹿ですよね、隊長。馬鹿でしょう、リュウセイ。
 不思議と一滴の涙も出てこなかった。実感がなかったからだ。信じていなかったからだ。だがそれも、セイランの顔を見た瞬間に崩壊した。怒涛のごとく押し寄せてくる現実に、一気に涙が溢れた。
 あの優しく強い人がそんな道を選ぶだなんて、一体なにがあったのだろう。もはやナグモ達には、想像することしか許されていない。それがひどく悲しく、切ない。


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