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「あ、私ね、後にはまったく響かないけど、売られたケンカはその場で買う主義なの」

 「他に言いたいことある?」となぜか弾むように問いかけてきたナグモは、嬉々としてマミヤの顔を覗き込んでいる。
 このままでは、マミヤが名実ともに牙を剥きそうだ。どう引き離そうかと混乱していたところで、ナグモの身体が波に浚われるかのように遠のいた。ふと落ちてきた影を辿るように見上げれば、青い瞳が呆れの色に染まっている。
 鞄でも持ち上げるような気軽さでナグモの腕を掴んで引き離したソウヤが、酒気を払うように首を振った。

「やめとけ、ナグモ。酔っ払い相手に絡むな」
「ええー? だってこの子かわいいんだもん。親睦を深めるためにガツンとやっとくのもよくない?」
「なにが『だもん』だ。三十路女がみっともねぇぞ」
「ちょっと! だから私まだ二十代! まだ三十路じゃない!!」

 ソウヤの手を振り払い、ナグモは力いっぱい吠え立てた。あまりに必死な形相に、氷河期が訪れたように固まっていた室内の空気は徐々に音を立てて壊れていった。騒音に近いカガの爆笑を筆頭に、張り詰めていた緊張の糸が切れる。
 すっかり元通りの空気に安堵しつつ、チトセは恐る恐るマミヤを盗み見た。いつも詐欺だのなんだのとチトセが騒ぐ笑顔など微塵も見せず、彼女は親の仇でも見るように刺身を睨みながらグラスを傾けている。細い喉元に流れていくその液体の色が違う。
 はっとして自分の手元を見れば、新しく運ばれてきたばかりのチトセのカシスオレンジが消えていた。

「マミヤ、マミヤってば! 飲みすぎだって! いつもこんな飲まないじゃない、もうやめときなさいよ」
「るっさいわねぇ、どーせタダ酒なんだから飲ませなさいよぉ。あ、勝手に飲んだこと怒ってんの? チトセも飲みたかった? なら飲ませてあげるわぁ」

 なにを。どうやって。
 そう問う間もなく、甘い香りとアルコールの匂いがぐっと近くなった。頬を包んだ手のひらは温かい。マミヤは冷え性だが、酒の力で末端まで温まっているのだろう。
 長く綺麗な睫毛が目の前に見えた。目を閉じていても美人だなんて羨ましい。
 近づいてくる唇をどこか他人事のように感じていたら、なにか硬いものに乱暴に口を塞がれた。首が無理やり後ろに傾けられ、息が詰まる。

「んぐっ!」
「……あーら?」
「ンなとこで見せるショーじゃねぇと思うがな。見ろ、ハルナが石になっちまってるぞ」
「ハルナさん以外は気づいてないみたいですけどぉ?」
「あいつ一人に悶々とさせる気か? お姫さんも残酷だな」
「あいっかわらず、ハルナさんには甘いんですねぇ」

 まるで彼氏みたぁい。
 妖しく笑って、マミヤはソウヤに目も向けずに酒を煽る。チトセの口を覆っていた手が離れ、なぜかその大きな手で思いきり頭を掻き混ぜられた。
 目を白黒させるチトセに構わず、彼はその場にしゃがみ込む。

「機嫌悪ぃな。こいつ、絡み酒だったか?」
「あ、いえ……。いつもは違うんですけど、なんか飲みすぎちゃったみたいで」
「まあいい。チトセ、こいつの荷物どこだ? お前も帰る準備しろ」
「え? でも、あのっ」
「送ってく。――ハルナといてぇのは分かるが、今のお姫さんは俺の手に余る。付き合え」

 耳元で囁くように言われ、その事実よりも言われた内容に対して顔に熱が昇った。この元上官は、本当に意地悪だ。
 逃げるようにマミヤの荷物を取りに走って戻ってくると、ハルナが「自分が送ります」と進言しているシーンに遭遇した。ソウヤに手間はかけさせられないと言っているようだが、本音はマミヤといたいからに決まっている。
 その気がなくても見惚れるほど綺麗な青い瞳が、優しく弧を描く。まるで弟にでもするようにハルナの頭を撫でたソウヤが、彼の後ろを指さして肩を竦めた。

「譲ってやりてぇが、お前はあっちの面倒見なきゃいけねぇだろ。あのオッサン、途中でお前が抜けたら暴れるぞ」
「――って、艦長! なに脱いでるんですかこのド阿呆がッ!!」

 上半身はとっくに脱ぎ捨て、ズボンを脱ごうと前屈みになっていたカガの背中に、ハルナの飛び蹴りが華麗に決まった。前のめりに畳に倒れ込んだカガの肩をそのまま踏み締め、ハルナが凍てついた眼差しで見下ろしている。座敷の隅で静かに飲んでいたタイヨウ三尉が、突然「グッジョブ!」と歓声を上げたのが怖かった。
 転がされたカガがそのままハルナの足に絡みつき、途端にぎゃんぎゃんと騒ぎ始めた。これではしばらく身動きが取れないだろう。いつものパターンだ。
 それを見て、ナグモが楽しそうに笑っている。あっという間にこの空気に馴染んだ彼女は、昔からそこにいたような雰囲気だ。

「ナグモ。――食い散らかすなよ」

 ごねるマミヤの腕を掴んで無理やり立たせながら、ソウヤが言った。チトセも反対側からマミヤの腕を掴んで支える。チトセの側に縋るように腕が絡められたので、ソウヤは代わりにチトセとマミヤの二人分の荷物を持ってくれた。
 声をかけられたナグモが、一瞬ぱちくりと目を瞬かせたかと思うと、野菜スティックに赤い舌を這わせた。なんでもない仕草のはずなのに、どこか妖艶で落ち着かなくなる。

「おっけ、善処する」

 ひらひらと手を振ったナグモは、マミヤとソウヤを交互に見て口笛を吹いた。彼女の目には、チトセなど映っていないかのようだった。



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