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「えっ」
「それがないと困るんだ。いい子だから返してくれるかな、ワカバちゃん」

 瞬間、首が竦んだ。
 とびきりの甘く優しい声が、耳に直接注ぎ込まれた。吐息が産毛をくすぐり、唇の熱が耳朶に触れている。
 声を飲んだのは奇跡に近い。
 わざとらしく音を立てて、唇が耳に押しつけられた。ぞくりとした感覚に、力の抜けた手から社員証が逃げ出していく。それを追うように、ワカバの膝も崩れ落ちた。
 真っ赤になった耳を押さえるワカバの前からあっさりと社員証を拾い上げたニノカタが、こちらを見下ろして馬鹿にしたように笑う。

「いい子だね、ワカバちゃん?」

 その笑顔は甘くもないし、優しくもない。心底馬鹿にしたような笑みは、小娘を嘲笑するためだけに浮かんでいた。
 許さない。
 ふつふつと湧き上がる怒りに震え、未だに力の入らない膝を叱咤しながらなんとか立ち上がる。たったそれだけなのに、随分と時間がかかった。
 頬に籠もる熱には気づかないふりをした。気のせいだ。気のせいでなければならない。
 立ち去ろうと背を向けていたニノカタに、ワカバは静かに靴を脱いで呼吸を整えた。
 お気に入りの赤いパンプスは、バックリボンがポイントだ。ヒールはそんなに高くない。いざというときでもすぐに動けるようにと、そう心がけているからだ。
 ワカバはしっかりと踵の部分を握り、目の前の目標に向かって意識を向けた。
 標的までおよそ三メートル。
 ――軍人舐めんな。

「このっ……、ド変態男ぉっ!」
「いってぇ!」

 軌道を読み、狙いをつけて振り抜いた靴は、見事にニノカタの後頭部に着弾した。ちょうどヒールが突き刺さるような形でぶつかったらしく、耐え切れず膝をついたニノカタが涙目で振り向く。

「今度は蹴らなかっただけ感謝してよね! このド変態! セクハラ男! 最低!」
「るっせぇよ暴力女! ガキ! TVAFA(トヴァファ/Terre Verte Air Force Academy)に連絡すっぞ!?」
「しても誰も信じないもん! それよりあなたのセクハラの方が問題にされるに決まってるでしょ!? わたしの耳舐めたくせに!」
「誰が舐めるかそんなもん!」
「舐めた! 絶対舐めた!」
「このクソガキ、」

 ニノカタが唸ったのとほぼ時を同じくして、こちらに近づいてくる足音を聞いた。はっとして二人の動きが止まる。本性を隠しているのはワカバだけではないのだから、反応が似てくるのも道理だろう。
 息を飲む二人の前に現れたのは、淡い茶髪の男だった。濃い色のサングラスをかけているから瞳の色までは分からない。日も暮れた今、それも室内でサングラスなんて必要ないだろうに。服のセンスは悪くないが、自意識過剰そうで鼻持ちならない。ざっと検分した結果、ワカバはそう評価をつけた。

「こんなところでなにをやってる、ニノカタ」
「……なんだ、ヴァハトか」

 正しかけていた姿勢を再びだらけさせ、ニノカタは床に胡坐をかいて首を鳴らす。あけすけなその態度から見るに、どうやらこの男は彼の知り合いらしい。
 ヴァハトと呼ばれた男が薄暗い廊下に入ってきた。奥にいるワカバにそこで初めて気づいたらしく、小さく驚いたような声を上げ、サングラスをずらして視線を投げてきた。淡い紫色の綺麗な瞳が露わになる。他国の血が入っているのか、もしくは西の地域出身なのだろう。掘りの深い顔立ちは、大多数のテールベルト人とは少し異なっている。
 どこかで見た気がして、ワカバは記憶の糸を辿った。そしてすぐに答えが出る。

「あっ……、ニノカタさんの同僚の方ですか?」
「ええ。君は確か、ニノカタのお客様でしたね。ワカバ様と記憶しております」
「はい! あ、でも、なんで名前……」
「ワカバ様はとても印象的なお客様でございますから」

 丁寧な物腰はさすが一級のフローリストといったところか。「ところで、」とヴァハトがニノカタに冷ややかな眼差しを投げた。

「彼がなにかいたしましたか?」

 顔を赤らめ、片方の靴が脱げたワカバを見て、ヴァハトはなにか勘違いをしたらしい。そのまま人を殺せるのではと思うほどの凍てついた視線が、否応なくニノカタを射抜く。
 ――わ、教官みたい。
 下手をすれば殺されそうなほど厳しい教官の双眸を思い出し、ワカバは自分に向けられたわけでもないのに身を竦めた。

「ふざけんな、どっちかってーと俺がされたんだよ」
「は?」
「ごっ、ごめんなさい……! わたし、びっくりして、足が滑っちゃって……」

 怪訝そうな顔をするヴァハトに、ワカバは瞳を潤ませて訴えた。

「ニノカタさんとお話してたら、虫が飛んできて……。それで、あの……恥ずかしいんですけど、その、びっくりして、ニノカタさんを突き飛ばすような形になっちゃったんです……」
「ああ……」

 ニノカタから舌打ちが聞こえたような気がしたが、聞こえないふりをしてワカバは腕時計に目を落とした。時間はもうギリギリだ。駅まで走らなければ門限に間に合いそうにないだろう。
 慌ててその旨を告げれば、ヴァハトが少し考えるようなそぶりを見せてから首を傾げた。

「なら、送っていきましょうか? 自分の家はヴェルデ基地近くですので。もちろん、見知らぬ男の車に二人きりは不安でしょうから、そこのニノカタも一緒に」
「え、でも、」
「やめとけ、ヴァハト。ガキくらい一人で帰らせろ」
「お前がお客様相手に素を見せるくらいの相手だ、無碍にはできないだろう。――どうですか?」

 ヴァハトの誠実そうな眼差しに、ワカバは満面の笑みを浮かべて頷いた。
 社員用通用口を通って駐車場に向かうまでの間、ヴァハトは様々な話をしてくれた。どれも面白くて、その節々から彼のまっすぐさが垣間見え、性格の捻じ曲がったニノカタの友人とは思えないほどだった。
 幸い道も込んでいないので、車で送ってもらえば門限には余裕で間に合うだろう。途中、ヴァハトが少し用があると言って薬局に立ち寄っている間、ワカバは隣のニノカタを見上げてふんと鼻を鳴らした。

「ヴァハトさん、すーっごくいい人。どっかのセクハラ男とは大違い」
「……お前、とことん男を見る目がねぇんだな」
「は? なによ、それ」

 欠伸混じりに言うニノカタの言葉の意味が分からず、下から睨み上げる。

「分かるほど近づくと後悔すんぞ」
「……なにそれ。あっ、ワカバがあの人に乗り換えるか心配してるの? もしかして、もうワカバのこと好きになった?」

 だとしたら今すぐ振ってやる。弾む気持ちのまま嬉々として聞いたというのに、ニノカタは興味なさげにこちらを一瞥し、眼鏡のずれを直しつつ鼻先で一蹴した。


「勘違いも甚だしゅうございます、お客様」


 こうして、結局は苛立ちと謎が増えただけで、ワカバのストレス発散大作戦は失敗に終わったのだった。


【act.2*end】


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