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 シミュレーションで突如エンジントラブルの発生を告げられたときよりも、遥かに強烈な焦りが生じた。考えるよりも先に言葉が飛び出ていく。それがどんな意味を持つか、吟味する余裕など皆無だ。

「なっ、なんで!?」
「え、なんでって……」
「なんでも言って! ワカバのなにがいけないの!? ダメなとこあるなら直すからっ、ねえ、なにがダメなの!?」

 勢いに任せてしがみつき、どうしてなんでを繰り返す。
 だって納得がいかない。フラれるはずがないのだ。そんな予定はワカバの中にはない。こんなにかわいいのになんでなの。なにがいけないの。
 「ねえ、」縋る手をやんわりと外しながら、ニノカタは優しく微笑んだ。見ているだけで胸がきゅうっと締め付けられる、穏やかな微笑だ。

「乳臭いガキに興味ないんだ」
「………………は?」
「だから、ごめんね?」
「え……」

 眼鏡のずれを直し、いつものように優しい表情でニノカタは「それじゃあそろそろ行こうか」と言って背を向けた。いつも通りだ。いつも通り、店で見るニノカタの姿そのものだ。
 だが、今のはなんだったのだろう。
 なにか、とてもじゃないが信じられない言葉を聞いた気がする。ニノカタには到底似合わないような、そんな台詞だった気がする。

「ちょ、ちょっと待って!」

 立ち去りかけていた背に声をかければ、ニノカタはあっさり足を止めた。白く染まった吐息が立ち昇る。それは明らかに溜息だった。
 億劫そうに振り向いた彼の表情を見て、凍りつく。
 ――だれ。
 別人かと問いたくなるほどの冷たい顔つきに、ワカバの足が先ほどとは違う震えを覚える。粗雑な仕草で頭を掻いたニノカタが、舌打ち混じりにワカバを睨んだ。

「あのさ、お前しつこいよ。ガキは無理だっつってんだろ? お子様にはなんの興味も湧かねぇの。ガキはガキらしく、同級生くんと仲良くしてろよ」
「え、あの、ニノカタさん……?」
「途中から嫌な予感はしてたけど、まさかここまでとはな。でももう分かったろ。そんじゃーな」

 くるりと向けられた背に、訳が分からなくなった。
 誰よ、これ。なによ、これ。
 黒縁眼鏡が似合って、黒の長エプロンが知的さをより高めていて、はにかんだ顔がかわいくて、けれどとても大人っぽくて、親切で優しいフローリスト。それがニノカタであったはずだ。目の前のこんな男と同一人物なはずがない。
 けれど、目の前で急に人が入れ替わるはずもなかった。
 信じられない。だって、だって。――だって。
 「乳臭いガキに興味ない」「しつこい」「なんの興味も湧かない」重ねられた言葉を反芻し、ふつふつと怒りが込み上げてくる。
 ざり、と音を立て、ブーツの靴底が砂を踏んだ。ニノカタの背は少しずつ遠ざかっていく。どうやらワカバを置いて帰るつもりらしい。濃紺のコートは、夕陽に溶けることなくはっきりと浮かんで見えた。
 膝の力を抜き、重心を下げる。すっと息を吸い込むと同時、ワカバは勢いよく地を蹴り、ニノカタに向かって走り出した。
 空学生だって軍人の端くれだ。――軍人舐めんな。

「はぁああああっ!!」
「――うおわっ!?」

 助走をつけて力強く地面を踏み締め、飛び上がって両足の靴裏でニノカタの背を蹴りつける。前のめりに倒れ込む男の長躯がずざっと砂利を掻き混ぜる音を聞きながら、ワカバは空中で俯せになるように体勢を変え、前受身を取ってすぐさま体勢を整えた。実戦であれば連撃が可能な流れだ。
 手のひらの砂を払い、倒れ込むニノカタを怒りに満ちた眼差しで見下ろす。

「いってぇな! なにしやがるっ、クソガキ!」
「ありえない、ありえないありえないありえない! ワカバが告ってんのに振るとか、そんなの絶対絶対ぜーったいありえない!! お花くれたくせに!!」

 高価な天然色の生花を、「みんなには内緒」だと言って贈ってくれた。あんなこと、なんとも思っていない相手にするはずがない。
 鞄につけたバッグチャームが揺れる。今はその音すら不快だった。

「はあ? あんなもん、傷んで商品価値がなくなった花に決まってるだろ。造花と違って生花は枯れるんだよ。枯れた花にゃ、価値なんざねぇの。どうせ処分すんならリピーター確保の材料にする方が確実だろうが」
「なによそれ、なんなのよ! だって、他にも連絡先教えてくれたりとかしたじゃないっ」
「おめでたいお子様だな。んなもん、フローリストの常套手段に決まってんだろ。――つか、お前やっぱり猫かぶってたんだな。これが本性か」

 鼻で笑われた瞬間、ワカバの中でなにかがぷつりと切れる音がした。
 地面に足を投げ出して座るニノカタに馬乗りになり、その胸倉を掴み上げる。
 穏やかに笑んでいた顔は、今や嘲りしか浮かべていない。それがひどく気に障った。

「許さない信じられないありえない! 善人ぶって、よくもわたしを騙して!!」
「騙す? バカか。どこの世界に客に暴言吐くフローリストがいるよ」
「――許さない、ぜぇったい、許さない!!」

 こんな侮辱は初めてだ。
 怒りに目の前が赤く染まるなんて、人生で初めて経験した。
 こんなにかわいいのにフラれるなんてありえない。ここまで頑張ったのにフラれるなんて信じられない。こんな、こんなひどいフラれ方、許していいはずがない。
 誰もがちやほやする「ワカバちゃん」は、ニノカタの前ではとびきりかわいいはずだった。メイクもファッションも細部にまで気を遣い、立ち振る舞いも完璧にしていたはずだ。
 ニノカタは優しい大人で、ワカバの傍で笑ってくれるはずだった。
 ――好きだったのに。

「絶対、許さない!」

 ニノカタの胴を跨いだまま立ち上がり、高みから見下ろしてその鼻先に指を突き付けた。

「絶対に許さないんだから! ワカバのこと、絶対に好きにさせてから捨ててやる! 泣いて縋っても絶対に絶対に捨ててやる! 今に見てなさいよ!」
「はあー? おいおい、なに言いだしてんだ、お前。面倒なこと考えんな」
「うるさいっ! うるさいうるさいうるっさい!! やるって言ったらやるの!! この腹黒男っ、ワカバの足元に泣いて跪きなさい!!」
「ガキが似合わないことキャンキャン騒ぐな。つか、足上げるとパンツ見えるぞ」
「きゃああああああっ! 見ないでよこの変態っ! 猫かぶりの腹黒変態男!! 最ッ低!!」

 ニノカタの肩を踏みつけた足を慌てて引っ込め、ワカバは怒りで滲んだ涙を拭った。ああもう、最悪だ。許さない。絶対に。
 こんな性悪男に二ヶ月も惚れていただなんて、そんな自分が情けない。屈辱だ。こうなったら復讐しなければ気が済まない。なにがなんでも惚れさせて、そうしてこっぴどく振ってやる。泣いて縋ってきても、鼻先であしらってやる。そうして後悔すればいい。今このときワカバを振ったことを、心底悔やんで泣けばいい。
 闘志を燃やし、毛を逆立てた猫のように唸るワカバを前に、ニノカタは小さく溜息を吐いてずれた眼鏡の位置を直した。そうして見上げてきた眼差しは、一瞬にしてワカバのよく知るフローリストのものになる。

「――どうぞそこをおどきくださいませ、お客様」

 人畜無害のふわりとした笑顔に、ワカバの怒りは二度目の爆発を起こした。



 ――盗まれた恋の行方は、いずこに。



【act.1】
【20140218】

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