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 今からでも取り戻せるだろうか。まだ、間に合うだろうか。もしもそれが叶わなくても、どうしても分かってほしいことが一つだけある。それを言おうものなら、また怒りに触れてしまうのかもしれないけれど、どうしても伝えたかった。

「でも! あたし、確かにあんなカッコしてましたし、浮ついてたかもしれませんけど、でも、あの男のためとかそんなこと一切ありませんからッ! ありえませんから! あんなクズ男に会いたかったとか全然まったくそんなことありませんから! あの人とどうこうなんて、微塵も考えてません! そこの誤解だけは、きちんと解いておきたくて」
「は?」
「誤解しないでください。あのとき助けていただいて、本当に感謝してます。ありがとうございました。だから、誤解しないでくださいっ」

 まっすぐに見つめてからまた勢いよく頭を下げたので、ハルナの顔は見えない。しばらく沈黙が流れた。さっきよりもずっと長く感じるそれを破ったのは、やはりハルナの溜息だった。

「……分かった」
「え?」

 慌てて顔を上げた先にはどこか苦い表情のハルナがいた。膝の上に肘をついて前のめりになる体勢でチトセを見上げてくるその姿に、弾かれたように背筋を伸ばす。

「お前がそこまで言うなら、そうなんだろう。――ろくに話も聞かんと、勝手に決めつけた。悪かった。その件についてはこちらにも非があった」
「あ、い、いえ、あの、」
「だが、奴相手に見せるんじゃないのなら、なんのために化粧なんざしたんだ。お前、普段はしてないだろう」
「そ、それは……」
「久々の外回りに浮かれたか」

 ぎろりと睨まれるも、本当のことを言うわけにはいかないのでぎこちなく頷く。言えるわけがない。あなたと外回りだから浮かれました、だなんて。
 その返答に案の定ハルナは目を三角にし、一切の容赦なくチトセの頭を平手で叩いた。バシンと小気味のいい音と共に脳が揺れる。

「こんっのド阿呆が! 仕事をなんだと思ってる、公私くらい分けろ!」
「はい! 本ッ当にすみませんでした、以後気を付けます!」
「分かったらもういい。二度とないようにな。――報告書も見た。当日があれだったわりには、それなりに書けてあった。及第点とは言えんが、努力は買う」
「ありがとうございます。……えと、あっ、あの、きょうか、二尉!」

 ハルナの声に嫌悪や侮蔑はない。そうだ、彼はこういう人だ。どれほどの怒りを滲ませようと、ずるずると後に引く人ではない。だとすれば、きっと間に合う。そう信じてもいいのだろうか。
 公私を分けろと彼は言う。今回はそれができなかったチトセが全面的に悪い。
 だから。
 ――だから、欲が出た。

「なんだ」
「ぷ、……プ、」

 ――プライベートで一度、会っていただけませんか?

「プ、プ……、…………プリン、買ってきましょうか」
「は?」
「あっ、いや、あのっ、あたし今から売店行くんで、お詫びに!」

 勢いで言おうとして、見事に撃沈した。
 一瞬唖然としたハルナの顔が、見る見るうちに冷えていく。あ、やばい。そう思ったときにはもう遅かった。

「貴様、プリン一つで上官のご機嫌とりか」
「え、でもハルナ二尉、好きですよね?」
「こんっの、」
「ド阿呆ですすみません行ってきます!! 御前を失礼いたします!!」

 フォローしたつもりがまったくフォローになっていなかった。怒鳴りつけられる前にきゅっと靴音を鳴らして踵を返し、リノリウムの床を足裏で叩いた。逃げるように駆け出したチトセの足は、数メートル進んだところでたたらを踏んだ。後頭部に、ゴッと勢いよくなにかがぶつかってきたからだ。
 あまりの痛みに、目の前に星が散る。何事かと思って後ろ頭を手で庇いながら振り向けば、呆れ眼で足を組み替えたハルナがなにも言わずに下を指さした。「下?」涙目になりながら視線を下げれば、黒い革の財布が床の上に転がっている。
 厚みのある財布だ。使い込まれていて、端の方がボロボロになってきている。
 ――これか。こんなものがぶつかってきたのか。でも、なんで。
 ぶつかってきたと言うより投げつけられたという方が正しいのだろうが、そもそもその理由が分からない。チトセを叱りつけるにしたって、わざわざ財布を使わなくてもいいだろう。それこそ、武器は彼の膝に乗っている雑誌でもなんでもいい。
 意を解せずに立ち尽くしているチトセに、ハルナは今日何度目か分からない溜息を吐いて頭を掻いた。

「それで買ってこい。お前の分も忘れるなよ。俺のはあくまでもついでだ」
「え?」
「小腹が空いた。早く行け」
「行けって、どこに……」

 言いかけてハルナの眉が吊り上がるのを確認し、慌てて財布を拾い上げる。

「行きます行ってきます、買ってきます!!」

 重たい財布をヘルメットと一緒に胸に抱き、売店までを全力で駆け抜けた。愛想のない財布はどこか男の人の匂いがして、余計に心臓が走り出す。こんな気持ちでは、また浮ついていると怒られるだろうか。それとも、仕事ではないから許されるだろうか。
 ハルナという人は、本当に難しい。真面目で、堅物で、少しでも間違えれば大目玉を食らう。けれど、失敗を自覚して反省すれば、見捨てられることはない。――そういうところを、好きになった。
 マミヤの分も買っていこう。そればかりはさすがに自分のお金で。犬のように忙しない呼吸をしながら売店でプリンを選んでいたチトセは、自分の財布を探してはたと気がついた。

「……あたし、財布持ってきてないんだった」

 “ついさっきまで空の上にいたのだから、それも当然だ”。フライトスーツを着替えていないし、ヘルメットを抱えた状態で財布なんて持っているわけがない。パイロットからすれば誰が見ても当然の状況だが、チトセはそんなことをすっかり失念していた。この状態で売店へ行こうとしていたのかと思うと、我ながら情けなくて頭が痛む。
 ――もしかして。ずっしりとした重みを感じる革の財布を見下ろして、ばくばくと高鳴る鼓動を必死で押さえ込む。
 逃げ出す言い訳だと気づいていたのか、それとも単純にそんなことも忘れている間抜けと思われたか。
 どちらにせよ、財布を持っていないチトセに気づいていたのだとしたら。
 唇を噛み締めたのは、悔しさからではなかった。ある意味、とても悔しいけれど。
 棚に並ぶプリンを選びながら、あの背中を思い出す。

 まずは部下として。
 いつか追い越す。
 ――そして、女として隣へ。

「……もう、間違えない」


 蕾のまま枯れてたまるか。


+end+
(20131105)

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