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どんな意地の悪い物言いでも、ソウヤが言うことは正しい。正論を覆せるだけのものを、マミヤはなにも持っていなかった。
それに、彼にはすべてお見通しだったのだ。柄にもなく突っかかった理由にも、マミヤが落ち込んでいる理由にも。見破られたことが恥ずかしく、情けなく、油断すれば目の奥が熱くなる。
――わたしが、お化粧してあげるなんて言ったから。
考えはどうしてもそこに辿り着く。あのとき、あんなことを言わなければ。そうしたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに。チトセには謝れなかった。自分の罪悪感を消すためだけに謝って、あの子に「そんなことない」だなんて言わせたくなかった。たった一人で背負わせたくなかった。
泣き疲れて眠っているだろう友人の元へ小走りで帰りながら、マミヤは小さく呟いた。
「……ごめんね、チトセ」
自分にできることは、なんだろうか。
* * *
翌朝、チトセは鏡を見る前から己の顔に起きている惨劇を自覚していた。頭も重ければ瞼も重く、瞬き一つが億劫だ。恐る恐る覗き込んだ鏡の中の自分は、予想通り化け物じみていた。夜中にマミヤが氷を持ってきてくれたおかげで顔全体の浮腫みは引いたようだが、一晩中泣き腫らしたと分かる瞼はどうにもならなかった。
深いため息を一つ零すとマミヤは身支度を整えながら「今日は休んだらぁ?」といつもの調子で告げてくれたけれど、チトセは構わず制服に袖を通した。頭は重怠く気分も冴えなかったが、ずる休みをする気には到底なれなかった。
――これ以上、嫌われる要素を作りたくない。
昨日のことを思い返せば、重油でも飲み込んだように胸が苦しくなった。それでもこれ以上失敗を重ねたくなくて、腫れの引かない瞼を引っさげてチトセは訓練に向かったのだった。
案の定、上官から同期に至るまで、チトセを見た誰もが驚き、ある者は笑い、ある者は心底気遣ってきた。明らかに泣いたと分かる顔だ。普段は厳しい上官が「なにがあった」と聞いてくれたが、答えることなどできなかった。
訓練そのものに支障はないと言い張って、夕方からの飛行訓練に参加してきた。戻ってくる頃には日は落ちていたので、暗闇の中での着陸訓練も兼ねている。結果はなんとか及第点といったところで、要努力とのことだった。こんな調子では、特殊飛行部入りなど夢のまた夢だろう。その事実がまたチトセを焦らせる。
フライトスーツに身を包んだままヘルメットを片手に、自動販売機に縋りつくように硬貨を入れようとして財布を持ってきていないことに気がついた。ついさっきまで空の上だったのだから当然だ。財布なんて持ち合わせていない。ああもう、と頭を抱えながら、チトセは無意識のうちに寮を目指していたらしい。共有区画のロビーは夕食後すぐだからか、多くの人で賑わっていた。
擦れ違ったカサギ一曹には、思い切り気の毒そうな目で見られた。しかしそれも一瞬で、彼が視線を戻した先にはヒヨウ二尉がいて、――その隣に、ハルナがいた。ハルナとヒヨウは同期で、入隊当時から仲が良かったと聞いている。男勝りなヒヨウは誰に対しても快活で、ハルナの肩を叩く手も酔った女がしなを作るような手つきとは程遠い。気心の知れた間柄だと誰が見ても分かるそれに、つきりと胸が痛んだ。
チトセでは、あんな風に気軽に肩を叩いたりできない。大口を開けて笑って、くだらない冗談を飛ばして、間近でハルナの笑顔を見て。隣に立つその人が羨ましくて、ヘルメットを抱く腕に力が籠もった。
引き返そうかと躊躇していたところで、カサギがチトセの脇を擦り抜けていった。ハルナとヒヨウの元へ迷いなく歩を進め、彼は二人に向かって敬礼し――何事かを告げ、ヒヨウを連れてどこかへ行ってしまった。なんとなく、「もしかして」と思った。カサギはあまり関わりのない上官なので、直接確かめるわけにもいかないからあくまで「なんとなく」だけれど。
一人になったハルナは、そのままソファに腰を落ち着けて広報紙を眺めている。
どうしよう。相手はまだチトセに気づいていない。このまま立ち去っても問題はないはずだ。報告書は昼休憩の間に送っていたので、特に話しかける必要性はない。ない、けれど。
冷え切った眼差しを思い出すと、足が竦んだ。見ているだけで不愉快だとはっきり告げてきた声が、今も耳の奥にこびりついている。それでも、――それでも、どうしても言いたいことがあった。
気がつけば、勝手に覚悟を決めた心が足を動かしていた。
「ハルナ二尉!」
「ん? ……なんだ、お前。酷い顔だな」
見上げてすぐ、ハルナの眼差しが怪訝なものに変わる。酷い顔だと言われて刺さらないものがないではなかったが、今はそれよりも嫌悪の色がないことに安堵した。押し出されるようにして言葉が舌を撫でていく。
「あのっ、あの、その、昨日は大変申し訳ありませんでしたっ!」
大声で叫ぶように謝罪し、折れそうなほど勢いよく頭を下げた。腰から折ってこれでもかと頭を下げる。突然の大声にロビーにいた誰もがチトセを見たのが分かったが、上官に部下が頭を下げる光景はさほど珍しくもないのですぐに興味は散っていった。
自分とハルナの爪先をじっと見つめたまま、早鐘を打つ心臓が口から逃げていかないことをひたすら祈る。沈黙は数秒だったのか、それとも数分だったのか。時計を見ていないチトセには分からなかった。
随分と長く感じた空白のあと、ハルナの大きな溜息が降ってきた。それを合図に顔を跳ね上げる。
「謝罪なら昨日聞いた。同じ言葉を何度も聞いても時間の無駄だ」
「分かってます。化粧して浮かれてたのは事実です、反省してます。あたし、自覚が足りてませんでした! なんのために視察に行くのか、どういう意図があるのか、考えてませんでした。空軍に属する軍人として、最低限の知識も持とうとしていなかったこと、本当に反省してます! 見てきて終わりだったら、そんなの誰でもできるんですよね。……なんのためにあたし達が派遣されたのか、考えるべきでした」
傷ついて、泣き濡れながらも考えた。
どこで間違えたのか。なにを間違えたのか。
ハルナがあれほど怒ったのには、正当な理由がある。彼は化粧をしていたことに怒ったのではなくて、化粧をするほど浮かれていたチトセの態度に怒ったのだ。浮かれてやるべきことをやらなかった姿勢が、彼の逆鱗に触れたのだ。