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ここは空だ。実戦では一瞬の迷いも許されない場所であるはずなのに、どうしてそこまではしゃいだ声を上げられる。実戦でなくとも、ほんの少しの判断ミス、操作ミスが死をもたらすかもしれない世界の中で、彼は地上よりも生き生きとしているように見えた。
加速したキリシマの機体も、はっきりと二つの機影を確認して追いかける。自然とゼロのサポートをするような形で飛んでいた。敵機を正面から挟み込む旋回の余地を確保するため、右側に一度開いて高度・速度共に調節する。
前方でからかうように翼を振る青の機体の手前で、ゼロは突然機首を下げた。そのまま躊躇いもなく急下降していく機影を見て、青い機体が追い縋る。格闘戦の基本は背を取り合うことだ。今のゼロは、自ら背を向けたに等しい。あんな無茶な急下降、身体にどれほどの負担がかかるか考えたくもない。
『ねえ、なに考えてんだろね、チビちゃん』
突如飛び込んできた聞き慣れない声に、一瞬操縦桿を握る手に力が籠もった。対戦者用の無線だ。キリシマと同じように低速で上空を旋回する青い機体のキャノピーから、パイロットが手を振っているのが見えた。下を指さし、一対一の格闘戦を始めた二人を観察するように空を滑る。
ここで戦う気はないらしい。キリシマが動けばそれも変わるのだろうが、なぜか今はその気にはなれなかった。
『あんな小さなカラダで最後までもつの? 兄貴、結構しぶといけど』
「見てれば分かるよ」
『へぇ、すっごい自信。ママはチビちゃんのこと信じてるんだ』
くつくつと響く笑声はまだ若い。軽口を叩くヘルに、キリシマも穏やかに笑ってみせた。
「ほら。――墜ちた」
下方でフレアが炸裂する。フレアはミサイルを回避するための自己防衛装置だ。このまま上手く回避すれば、「墜ちた」ことにはならない。それでも、キリシマには確信があった。『なに?』怪訝そうな声が届く。ヘルは肉眼か、それともディスプレイでか、どちらで確認したのだろう。
フレアを放出したのが青い機体で、――それを撃墜したのが、深緑の機体だということを。
即座に全機に「CT-4・1、被弾。ただちに離脱せよ」との無線が入る。詰んでいるミサイルも機関砲の弾丸も、すべて偽弾だ。衝撃はあれど、実際機体に穴が開くことはない。着弾判定を受けた時点で、管制塔司令部から「負け」だと評価が下される。
ゼロの機体が、地上へと戻っていく機体すれすれを飛んだ。
『あんた遅すぎ。止まってんのかと思った』
ワイルドに対する子供じみた嘲笑が、キリシマにも聞こえた。味方が墜とされたというのに、ヘルはそれを聞いた途端にげらげらと笑い始めた。コックピットの中で膝でも叩いていそうな雰囲気だ。
対戦者無線を通して、ヘルの口笛が軽やかな音を奏でる。
『意外とやるね、チビちゃん。それじゃあ今度は、ママと一緒に俺のこと捕まえてみてよ』
急加速を決めたヘルの機体が、一瞬で遠ざかっていく。
どうせあとで教官には大目玉を食らうのだ。なら、もう一つや二つ無理をしても同じだろう。
「ゼロくん、サポートするから好きなように飛んでいいよ」
『やった! さっすがセンパイ、話が分かる! それじゃあさ、墜ちないようについてきて!』
まるで遊園地に行くかのようなはしゃぎっぷりだ。加速を知らせる炎を見ながら、キリシマもそれに続く。
上に、下に、右に、左に。天地が何度も移り変わり、血液が掻き回される。凄まじい衝撃が絶え間なく身体を遅い、重怠い腕でしっかりと操縦桿を固定し、ミサイルスイッチを押し上げる。トリガーはいつでも引ける状態だ。
ゼロの軌道を読み、それに合わせて位置を変えながら飛んでいく。ヘルが機首を返せば、臨機応変にターンして追いかけた。キリシマの目の前で、ゼロがさらにエンジンを噴かせたのが分かった。どこまで加速する気だろう。下手をすれば、内部発火を引き起こす。
ゼロの機体からゴォッと炎が吐かれた次の瞬間、青い機体は空を縫うような動きを見せて速度を落とした。――オーバーシュート。あっという間に、ゼロの機体の後方にヘルの機体がぴたりと張り付く。キリシマがフォローする隙もないほどに、鮮やかな動きだった。あれでは完全にミサイルの射程圏内だ。ボタン一つでゼロの負けが決まる。
焦りがスロットルレバーへ伸びた手を動かした。
「ゼロくん、下げて!」
『――ごめんね、センパイ』
身体への負荷など無視してターンしたキリシマに、そんな声が投げられる。どういうことだ。軽々と音速を越えた機体は、一直線にヘルの後方へと向かっていく。ヘッドアップディスプレイとレーダーディスプレイを交互に見ながら、ロックできる位置まで飛んでいく。
後ろでなくてもいい。とにかくロックして、あとはミサイルを叩き込めば終わりだ。そう思った瞬間、ヘルの機体からミサイルが発射された。ゼロの機体後方からフレアが放出され、オレンジ色の炎を追うように、白い煙が幾本も放たれる。上昇していく機体は無事に避けたか、それとも当たったか。まだゼロの「負け」は聞こえてこない。
キリシマがロックしたヘルのコックピットには、アラートが鳴り響いているはずだ。ロックを外そうとする動きが見えた。ゼロのことなどもう気にしないとでも言いたげなその旋回に、信じられない思いが胸を渦巻く。
――なんとしてでも墜とす。
静かに双眸に力を込めたキリシマは、その瞳で緑を切り取った。
「え……?」
思わず、そんな声が出た。
ありえない。ありえるはずがない。あんな動きが、飛行樹にできるはずがない。
一瞬の空白が訪れ、耳朶を無機質な声が叩いた。
『CT-4・2、被弾。ただちに離脱せよ。――戦闘終了、全機帰投せよ』
ありえるはずが、ないのに。
操縦桿を握る手が震えたのは、初めてだった。
* * *
キャノピーを押し上げ、飛行樹から降り立ったこの瞬間、帰ってきてしまったのだと実感する。地に足をつけた生活は嫌いではないが、ゼロにとっては空の上があまりに居心地良すぎた。ヘルメットを脱ぎ、汗ばんだ頭を犬のように振って雫を飛ばす。見上げた空から降り注ぐ陽光に目を細め、そのまま機体にもたれて、ふうと一息ついた。
今にもみしみしと音の鳴りそうな身体を軽く動かして血を巡らせる。シートベルトに沿って、腹や胸には内出血が痕を残すことだろう。しばらくは痛むだろうなぁとぼんやり考えていたら、先に着陸していたキリシマがヘルメットを片手に走り寄ってきた。
その表情が穏やかではないのを見て、「あーあ」と空を仰ぐ。