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「お前の母さんは亡くなったんだ、ソウヤ」
「なん……、で。なに、それ」
「感染者に遭遇して、襲われたらしい。アマヤも――父さんも、一緒だった。父さんは今、……感染して、治療を受けている。おじいちゃんが言っていること、分かるか?」
分からない。
助けを求めるように伯母を見たけれど、すぐに目を反らされてしまった。ツラギは泣くばかりであてにならない。
再び祖父に視線を戻してから、滲む視界の中で母を見た。首のところに、血の滲んだガーゼが当てられている。
「ソウヤ。父さんに会いに行こう。母さんの最期には間に合わなかったが、父さんはまだ間に合うだろうから」
「お義父さんっ! 子供にはあんまりです!」
「見せた方がいい。――あれがまだ、人であるうちに」
しわくちゃの大きな手がソウヤの手を握る。
まだ、母さんの傍にいたいのに。まだいなくちゃいけないのに。もう少し待っていたら、きっと目を覚ますに決まっている。あんなことを言ったから、起きるのが気まずいんだ。だってそうでしょう。ねえ、そうなんでしょう。
ごめんって、言わなきゃ。
だいきらいなんて言ってごめん。大好きだよ。そう言ったらきっと、笑ってくれる。
お揃いの、翼がないと見られない特別な青い色の目がぱっちりと開いて、ソウヤを見て笑って頭を撫でてくれる。
――そうだって言ってよ、ねえ。
病室に伯母とツラギを残し、祖父はソウヤを病院の地下へと案内した。黙って手を引いて、奥へ奥へと進んでいく。
何枚もの扉を抜けると、こんな時間なのに白衣を着た人がせわしなく動き回っている空間に出た。あちこちから、かすかに呻き声のようなものが聞こえてくる。
スタッフの一人がソウヤを見て、顔を歪めた。
「ソウヤ、こっちだ」
連れて行かれた先にあったのは、分厚いガラス窓が填められた部屋の前だった。部屋と言っても病室とは雰囲気が全然違う。中央に置かれたシンプルなベッドがあって、その脇にはたくさんの管が伸びた機械がいくつもあった。さほど広くはないけれど、狭くもない。天井にはカメラが取りつけられていて、中の様子をくまなく監視している。
ガラス越しに部屋の中を見る感覚は、動物園を思い出させた。
けれど、中にいるのは、動物などではなかった。
「と、さん……?」
血走った眼。
葉脈の浮いた肌。
色を失くした唇は、吠えるたびに零れ落ちる唾液でぬらぬらと光っていた。
あれは誰だ。
父に似ているけれど、あれが父のはずがない。
優しい父が、あんな恐ろしい顔をするはずがない。
中にいるヒトが、喉を掻き毟って暴れまわっている。ベッドを蹴り、機械を叩き、ソウヤの目の前まで走ってきて壁を殴った。
「ひっ!」
「――お前達のせいだ。卑しい女め、最期まで面倒かけやがって」
「やめんか、テンリ!」
伯父がいたのだと気づいたのは、祖父の厳しい叱責が飛んだときだった。
部屋の中のヒトを一瞬だけ見た伯父は、毛を逆立てて怒る猫よりも鋭い瞳でソウヤを睨む。あまりにも恐ろしいそれに、足が竦んだ。
「だから俺は反対だったんだ。あんな女と一緒になるなんて。どこの男の子とも知れないガキを育てて、挙句これか! アマヤはお前を探しに行って死んだってのに、一人のうのうと生き残りやがって。売女の子はさすが図太いな!」
「いい加減にせんか!」
祖父が伯父を殴りかかると、驚くほど勢いよく伯父の身体が吹っ飛んだ。尻餅をついてもなお、伯父はソウヤを睨んだままだ。
「お前が殺したんだ」まるで、呪詛だ。
震えるソウヤの耳を、鈍い音が叩く。ガラス窓を中のヒトが叩き続けているのだ。血走った目の端から血の涙が頬を伝っている。そのヒトはソウヤの目を見るなり、口元を綻ばせた。
――ソウヤ。
確かに、そう言った。
張りつくようにして中を見る。向こうからも同じようにガラスに手をぴたりとつけて、そのヒトはソウヤと目線の高さを合わせてきた。
ソウヤ、ソウヤ。声は聞こえない。けれど、唇の形がはっきりとそう紡いでいる。
「とうさ、……とうさんっ」
優しく笑うその顔に、涙が我慢できない。
聞いてよ父さん、母さんが大変なんだ。起きないんだ。起きてくれないんだ。怪我してる。早く起こさないと。ねえ父さん、早くここから出てきて母さんのところに――。
――ふフ、アはハ、ハハハハハハハ!!
どろりとした茶褐色の液体が、そのヒトの口から流れ落ちた。充血して真っ赤な瞳をひっくり返して笑う様は、父とは程遠い。腕に浮かんだ葉脈。ガラスを叩く手から血が出ても、そのヒトは動きを止めない。何度も、何度も、拳を打ちつける。その爪の間から、白い小さな芽が生えているのを見た。
狂ったように暴れまわるそのヒトは、ソウヤを見て笑う。ソウヤ、ソウヤ、いとしいソウヤ。唇は確かにそう紡いでいるはずなのに、優しい声は聞こえない。
瞬きもしていないのに、次から次へと涙が溢れていく。
中のヒトが全力で頭をガラスにぶつけ、血が透明な壁を伝い落ちる。その瞬間、すべてが決壊した。
「うえっ、げほっ……おえっ!」
胃の中のものをすべて吐き出しても、それでもまだ胃が痙攣し続ける。青い色が溶けて消えてしまいそうなほど泣いても、涙は止まらない。
叫びたいのに声が出ない。叫んで、怒鳴って、大声で嘆きたいのに、声が出ない。
伯父の声が呪詛を吐く。
聞こえるはずのない笑声が、ガラス越しに聞こえたような気がした。
それから二日後。
――父は、殺処分対象となった。
* * *
ソウヤと母さんの目はね、空の色なのよ。
これはね、うんと高い空の色なんだって。飛行樹に乗って、うんとうーんと高く飛んだら、こんな色が見えるんだって。
いつか見てみたい。
母さん、ソウヤと父さんの青い鳥になりたいの。
* * *
――大っ嫌い。
はっとして目を覚まし辺りを見たが、当然誰もいない。じんわりと湿った身体が気持ち悪く、頭皮もしっとりと汗ばんでいた。首筋に張りつく髪が鬱陶しい。
随分と懐かしい夢を見ていた。
けっしていい夢とは言えないそれに苦笑する。時間を確認したが、起きるには二時間ほど早い。とはいえもう一度眠れそうにもなく、ソウヤは汗を流すべくシャワールームへと向かった。
あんな夢を見るとは、やはり少し疲れが溜まってきているのだろう。ツラギと話したことによって、記憶が揺さぶられたのかもしれない。
結局、あのあとソウヤは、祖父に引き取られた。家出したソウヤを探しに外に出た両親が、いつものソウヤお気に入りの公園に行き、そこで白の植物による感染者に襲われたことを知ったのは、もう少し大きくなってからだった。
両親のことに加えて祖父が元空軍の出であったことが影響して、自然と空軍入りを目指すようになった。
当時八歳の子供にとって、あの出来事はあまりにも影響が大きすぎた。
眠るように死んでいた母。目の前で狂っていく父。そして、呪詛を吐き続ける伯父。