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 再び振り上げられた父の手を、抱き着くようにして母が止めた。ぎゅっと目を瞑っていたソウヤには、そのときの母がどんな表情をしていたのか分からなかった。
 次に目を開けたときには母は涙を拭っていて、必死に笑おうとしていた。

「……ねえ、ソウヤ。母さんの言うこと、信じられない?」

 信じるもなにも、否定してくれなかったのは母の方なのに。
 黙り込んだソウヤを前に、またしても母の目から涙が落ちる。くしゃりと歪んだ唇の奥で、歯の震える音がしていた。

「……だいっきらいだ」

 青い瞳をまっすぐ睨みつけて、噛みつくように言ってやった。
 また叩かれるだろうか。
 そう思ったけれど、父は動かない。父がどんな顔をしているのかは分からなかった。ソウヤの目は、ずっと母を見ていたから。

「ああ、そう」

 母は一度上を向いて、鼻を啜った。大きく息を吐いて、天井をじっと見上げていた。何粒か涙が落ちてきたあとで、母が引き結んでいた唇をほどいた。
 きゅう、と口の端が持ち上がる。ぷるぷると震えていたけれど、母は、笑ったのだ。

「――ああそう、そーですか! 母さんもね、あんたみたいな子、大っ嫌い!」

 厳しい声が今度はソウヤではなく母を怒鳴りつけていたけれど、もうソウヤの耳には届いていなかった。
 心臓がうるさい。胸の中に手を突っ込んで、さっさと放り出してしまいたかった。
 帰ってきたときと同じように乱暴に扉を開け放って、そのまま家を飛び出した。溢れる涙が鬱陶しい。どこもかしこも痛くて、つらくて、それなのに、手当てしてくれる腕がない。

 嫌いだ。
 大嫌いだ。
 母さんも、父さんも。

 ――だいっきらいだ。

 走って走って走って、心臓が破れるくらい走り続けた。
 気がつけば足を踏み入れていた公園は、母も父も知らない秘密の場所だった。両親は、ソウヤのお気に入りの場所は家の近くにあるもう一つの公園だと思っている。
 キリンを模した滑り台のトンネルの中、膝を抱えて蹲った。頭の中をぐるぐると、いろんなことが渦巻いている。それだけで目が回りそうで、気分が悪くなった。
 叩かれた頬が痛い。手を当てれば驚くほど熱を持っていて、ぷっくりと腫れ上がっているのだと知った。散々だ。あちこち痛くて、苦しい。
 大っ嫌い。その声が耳の奥によみがえるたび、じわりと涙が溢れてくる。そんな簡単に泣いてたまるか。抱えた膝の間に顔を埋めて、ぐっと歯を食いしばる。泣くな、泣くな、泣くな。今日はもうここで夜を明かそう。夜は危ないからと大人達は口を酸っぱくさせて言うが、一晩くらいなら大丈夫だ。ここは山からも遠いから、感染者や白の植物の危険も少ない。
 夜が明けたら、どうしよう。
 ツラギのところへ行こうか。おじさんは怖いけれど、でも、おばさんは優しいから。
 そうだ、そうしよう。朝になればおじさんは仕事に行っているはずだから、きっと大丈夫だ。
 これからどうするか決めてしまえば、気が抜けたのか急に身体が重たくなってきた。もう日は落ちかけている。赤く染まった地面に、外灯の影が長く伸びていた。
 閉じた瞳に、濡れた青が映る。
 もう一生消えてくれないのではないかと思うほど、鮮明に。


* * *



 気づかないだけで、青い鳥は常にそこにいたのだ。


* * *



「そーくんっ、そーくん! 起きて、ソウヤ!」
「ん……、え……? ツラギ?」
「そーくん! おばっ、おばさんと、おじさんが……!」

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしたツラギに無理やり揺り起こされて、訳が分からないまま手を引かれて走った。公園の外に伯母がいて、押し込むように後部座席に乗せられてどこかへ連れて行かれた。
 どうしたの。なにがあったの。訊ねてもツラギは泣くばかりで答えてくれないし、運転席の伯母も難しい顔をして黙り込んだままだ。
 周りはすっかり暗くなっていて、いつのまにか夜中になっていた。
 泣きじゃくるツラギがソウヤの手をぎゅっと強く握ってきて、ソウヤの疑問には答えずにわんわんと泣き続ける。
 なんだよ。どうしたんだよ。母さんと父さんがどうしたんだよ。聞きたいのに、声が出てこない。どうしようもない不安ばかりが胸を覆い尽くして、そのまま暗闇の怪物に頭から食べられてしまいそうだった。
 勢いよく車が止まって、伯母が「降りて」と硬い声で言った。一人で降りようとしたらツラギに手を繋がれ、二人で仲良く降りるはめになった。いつもなら恥ずかしいと振り払う手は、今はなぜだかそんな気にならない。
 伯母に案内されてやってきたその建物は、この辺りでは一番大きな病院だった。

「可哀想に……」

 前を歩く伯母が、ぽつりとそんなことを呟いた。
 ――可哀想って、誰のこと?
 静かな夜の病院は不気味だ。足音がやけに響く。ある病室の前で、やっと伯母が立ち止まってソウヤを見た。
 この中にいるのは両親だ。子供でもそれくらい分かる。病気か、事故か。とにかく、なにかあったのだ。
 伯母がなにか言いかけたのを遮るように、ツラギの手を振りほどいて病室の中に飛び込んだ。暗い病室の中には、一つだけベッドがあった。その傍らに誰か立っていて、それが祖父だと気がつくのに少し時間がかかった。なにしろ祖父は、今まで見たことがないくらいつらそうな顔をしていたからだ。

「……ソウヤ、おいで。お別れの挨拶をしなさい」
「え?」

 お別れって、なにさ。
 導かれるままベッドの傍に寄り、ソウヤは言葉を失った。

「かあさん……?」

 涙の跡がいくつも残る頬に、ミミズ腫れのような傷がある。家を飛び出すとき、こんなものはなかった。顔がやけに白い。唇も見たことがないような色をしていた。
 そっと、その身体を揺すってみた。寝ているだけだ。起こさなきゃ。早く、起こさなきゃ。
 肩を揺する。何度も、何度も。少し強くしてみた。ベッドがぎしぎしと音を立てたけれど、母は目を覚まさない。

「かあ、さ……、母さん、ね、起きてよ……。起きろよ、ねえ、ってば。かあさんっ!!」

 怒鳴った瞬間、ツラギがわっと声を上げて泣き出した。
 さらに強く身体を揺すろうとしたソウヤの腕を、祖父が掴んで静止する。父と同じ茶色の瞳が、悲しそうに揺れていた。


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