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 パイロットになればコックピットの座席に座っているだけなのだから、体力など関係ないと思っていた。だが、ゼロのその考えは甘すぎたのだと、最近になって痛感するようになった。
 一秒先の命も保障されない空を飛ぶ以上、どんなにリラックスしていると思っていても身体のどこかは必ず緊張状態にある。常に集中し、神経を研ぎ澄ましていなければならない。
 加えて、強烈なGが身体を蝕むのだ。心身共に鍛えなければやっていけないことは明白だった。
 ゼロにとって、空は地上よりもずっと過ごしやすい場所だった。今まで空を飛んでいて、それを苦痛に感じたことなど一度もない。
 青に溶ければ、疲労など感じない。
 しかしそれは感覚が麻痺しているだけで、身体はしっかり疲弊している。地上に降り立った途端、地面に座り込むことも一度や二度ではなかった。
 ――もしこれが、空で起きたら。
 翼を広げ、自由に飛び回れることのできるあの場所でそんなことになってしまったらと思うと、考えるだけで寒気がした。

「それにしても、ゼロって顔ちっちゃいね。いいなぁ、羨ましい」
「そう?」
「そうだよ。男の子なのに肌も綺麗だし、ほっぺたぷにぷにだし。それに、少女マンガの男の子みたいに睫毛ながーい。いいなぁ」
「ちょっとワカバ、くすぐったいからやめて」

 目元や頬を撫でたりつついたりするワカバの指先から逃れるように身を捩ったその瞬間、二人の鼓膜をジリリリリッという高い音が貫いた。
 二人とも日常を切り替える音には敏感だ。反射的に身体が動く。

「えっ? なにこの警報……火事?」

 急に身体を起こしたせいで一瞬目の前が暗くなったが、数秒もすれば元通りだ。身体のだるさも消えている。
 ゼロは近くの職員に事情を尋ねようとしたが、誰もがパニック状態になっていて立ち止まろうともしなかった。

「ワカバ、ゼロ!」
「ハルナ二尉!」

 硬い表情のハルナが廊下から飛び込んできて、二人を見るなりほっと息を吐いた。よく見れば、ハルナの手元には薬銃が握られている。
 空学生であるゼロやワカバには日常の携帯が認められていないものの、ハルナのような正規軍人であれば話は別だ。制服を着用している以上、彼にとっては勤務時間内なのだから、薬銃の所持も当然だった。
 だが、注目すべきはそこではない。対感染者用の銃を構えているということがなにを意味しているのか、座学の苦手なゼロにもすぐに理解できた。

『こちら保管室! コード5、くっ、繰り返しますっ、コード5! ただちに避難を、うわぁあああああっ!』
「コード5ってなに……?」
「とにかく避難が先だ! 俺が誘導する、ついてこい!」

 研究所内のスピーカーから、切羽詰まった声と悲鳴が放たれる。雑音が多く、すぐに途切れたそれには確かに笑い声のようなものも入っていた。
 駆け出すハルナに後れを取らないよう、ゼロもワカバも全力で床を蹴った。警報の鳴り響く建物の中をひた走る。曲がり角に差し掛かるたびに足を止め、ハルナが状況を確認してから先に進んだ。
 テールベルト空軍が誇るエースパイロットは、地上においても極めて優秀な軍人だ。彼は周囲を警戒しながらも、逃げ惑う職員たちを誘導して確実に避難ルートに乗せていく。

「ハルナ二尉っ! こちらは出口から遠ざかっていませんか!?」
「これでいい! あとで説明してやるから、今は黙ってついてこい!」

 ワカバの言うとおり、ハルナが目指す方向は出口とは真逆のようだった。だが、この場で最も頼りになる人物が誰であるかなど、考えるまでもない。ここでハルナに従わないという選択肢など存在しないのだ。
 肺が破れそうになるほど走り、そろそろ足が縺れるかという頃になって、ハルナはようやっとドアノブのついた扉を開け放った。この研究所内ではスライド式の自動扉がほとんどだったので、こうした部屋は珍しい。

「入れ!」

 腹の底から響くその一声に、へとへとになりかけていた職員たちが最後の力を振り絞って部屋の中へと駆け込んでいく。最後の一人が飛び込んだのを確認するなり、ハルナは自らも入室すると同時に扉にしっかりと鍵をかけ、近くにあった椅子や長机を使ってバリケードを作った。
 体力のないゼロはもちろん、ワカバも肩で息をしている。日頃は机仕事ばかりであろう職員たちは言うまでもなく、そんな中で唯一呼吸を乱していないのがハルナだ。てきぱきと行動するハルナを手伝おうとワカバが腰を上げたが、彼は軽く手で制してワカバを休ませた。


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