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ああ、楽しかった。
こんな調子だから敵を作るのだと自覚していないわけではないが、染みついた性分はそう簡単には正せない。屈辱と疲労に震える腕を気遣うふりをして嗤い、限界を訴えるまで追い詰めた。
噛み締めた唇から引きずり出した謝罪の言葉にはありとあらゆる感情が纏わりついていて、それがひどく滑稽で抱腹絶倒ものだった。久しぶりの憂さ晴らしに、少しだけ靄が晴れる。
グラスの中で氷が躍る。喉を滑る酒は、少し濃い。
砂塵になるまでに叩き折ってやったプライドは、それでいて修復できる程度に留めておいた。傷だらけの状態で組み直した柱ほど弱いものはない。せいぜい必死で掻き集め、見た目を取り繕っておけばいい。自壊するか、それとも誰か他の手によって崩れるか。
我ながら悪趣味だと酒を呷っていると、脇に置いていた携帯端末が震え始めた。表示された名前をしっかりと確認してから通話ボタンを押す。
「もしも、」
『もしもし、そーくん! ねえっ、本! あれ、どういうこと!? 大丈夫!?』
あまりの剣幕に、鼓膜がびりりと震えた。
「ちょっとボリューム下げろ、ツラギ。どういうこともなにも、なぁ。ま、俺は大丈夫だ」
『大丈夫って、そんなわけないじゃない! だって、あんなっ』
「――お前も自分のことみてぇに怒るなぁ」
『ちょっと、なに笑ってんの? 怒るに決まってるでしょ、あんなの! どこの雑誌も好き勝手書いて! そーくん抗議したの!?』
「一応軍から入れたのは入れたが、どこまで聞くかだなー」
のんびりとした口調で言えば、またしてもツラギが語気を荒げた。怒りの矛先がソウヤへと向かう。
父方の従姉であるツラギは、昔からソウヤを「そーくん」などと呼ぶ。どう考えてもそんな愛称が似合う子供ではなかったのだが、年上の彼女にはなぜか逆らうことができずされるがままだった。軍事ファンでもある彼女の結婚式には、「絶対に儀礼服で来てよね! あ、でも、戦闘服も見たいから持ってきて!」と言われて、その通りにしたほどだ。
はいはいと適当にお説教を聞き流していた耳に、ぐずりと鼻を啜る音が聞こえてきて嫌になる。
「なんで泣く?」
『そーくんがそんなだからでしょお。もうやだ、やっぱりあたし、そーくんと結婚すればよかったぁ。そしたら、ぜんぶ、分かってあげられたのにぃ』
ぐずぐずと泣きながらそんなことを言われて、また怒らせると分かっていても噴き出してしまう。
「馬鹿。お前、いま幸せなんだろ?」
『そうだけどぉ』
「だったらそれでよかったんだよ。俺じゃそうはいかねぇから」
人の涙は大好きだ。それこそ、三度の飯よりも。
けれどこれは美味しくない。
「俺は大丈夫だっつってんだろ、泣くな。それより、そっちから情報、」
『あたしが漏らすわけないでしょ!? でも、――でも、父さんからは、漏れたかもしれない。ごめん……』
暗く沈んだ声に、どうしたものかと頭を掻く。予想通りの展開なので、強がりでもなんでもなく、本当に微塵も驚いたり傷ついたりしていないのだ。
それでもツラギは嗚咽を漏らす。ごめんね、ごめん。何度も何度も謝る声が、遠い日の記憶と重なった。
「いいって。構わねぇよ、気にすんな」
伯父には昔からよく思われていなかったから、どうせそんなことだろうとは思っていた。調べれば分かることとはいえ、雑誌に書かれていた一部の詳細な事情は身内しか知りえないことだったからだ。
伯父と最後に会ったのは、ツラギの結婚式のときだ。軍服に身を包んだソウヤを見る目は、ゴミを見るそれよりもきつかった。「卑しい売女のガキが、またこの場を穢しやがって」擦れ違いざまに吐き捨てられた台詞に傷つくほどの軟な心を持ってはいないけれど、身内の台詞となればなにも感じずにはいられなかった。
「……悪かったな、心配かけて」
『っ、なんでそーくんが謝るの!? バカでしょ、ぜったいバカでしょう! なんでよ、なんで、そーくんつらいって言わないのよぉー……!』
ついにわんわんと声を上げ始めたツラギに、携帯端末を耳に当てたまま苦笑する。きっと鼻水を垂らして、大口を開けて泣いているのだろう。大人になっても、彼女は子供のような泣き方をするから。
落ち着くまでしばらく待っていると、濡れた声のままツラギはソウヤを呼んだ。「なんだ?」できるだけ、優しい声を出したつもりだった。しかし、それによってさらにツラギの嗚咽が大きくなる。
『なんで泣かないの、そーくん』
「これくらいで泣いてられるか。そもそも悲しくない」
『でもそーくん、泣き虫のくせに』
「あのな、いつの話だそりゃ」
いつまでも子供の頃の話をされては敵わない。ツラギは自分が空軍内でなんと呼ばれているのか知らないのだ。「青い目の悪魔」「鬼教官」きっと彼女は、それを聞いたら腹を抱えて笑うのだろう。
なんで泣かないの。どうして泣かないの。だったらなぜお前が泣く。苦笑しながら訊ねれば、彼女は途切れ途切れに言った。「だってそーくんが泣かないからでしょう」馬鹿馬鹿しい。これくらいで泣いてられるか。
通話が終わる間際、ツラギはもう一度「父さんがごめんね」と謝ってきた。気にするなと言ったところで気にするのは目に見えていたから、「ああ」とだけ返して切り上げる。
本当に、ツラギが心配するほど自分はダメージを受けてはいないのに。
『やっぱりあたし、そーくんと結婚すればよかった』
恋愛感情なんてお互い、小指の先ほども持ったことなどないのに。
全部分かってあげられる、だなんて、よくも大きなことを言ったものだ。ああ、でも。グラスに残った氷を噛み砕きながら、ふと思う。
「――だとしたら、楽だったろうな」