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* * *
「ワカバ!」
足早に廊下を歩いていたところで声をかけられ、はっと顔を上げた先にゼロがいた。向こうも訓練終わりだったのか、汗ばんだ額がきらりと光っている。
こうして見ると、ゼロの髪は本当に綺麗な色だった。王族でもないのに深緑の髪。入学当初は「髪の色だけでもてはやされて」と不満に思っていたけれど、今ではそんな思いは微塵もない。彼には注目されるだけの理由があったのだと、今となってはよく分かる。
「大丈夫? 顔真っ青じゃんか。風呂入ってきたんじゃないの? 冷えた?」
「え、あ、ううん、だいじょうぶ。しっかり浸かってきたんだけどな……」
「うわ、なにこれ。手も氷みたいになってんじゃん。なんかあった?」
なにもない。
あるのはこれからだ。
これから準備をして、外に出る。そしてあの場所で彼と会い、すべてに終止符を打ってくる。たったそれだけのことなのだが、身体は緊張に囚われているらしい。
気を抜けば指先が震えだしそうだった。ぎゅっと指を握るゼロの手が温かくて、やっと救助された漂流者のように大げさなまでの安堵の息が漏れた。
「ワカバ?」
「あ、あのね、ゼロ。ワカバ、今からちょっとおでかけしてくるんだけど」
「今から? この状態で?」
「うん。どうしても行かなきゃいけないの。あの、それで、お願いがあるんだけど……」
「なに?」
決意はした。覚悟は決めた。それでも、やはり恐怖は付き纏う。
傷つくことを知りながら行動するのは初めてだった。“かわいいワカバちゃん”はこんな思いをしたことがなかったし、きっと一生することはないと思っていた。
だが、人生はそう甘くはない。
「あのね、『頑張れ』って、言ってくれる? ワカバなら大丈夫だって言って。できるって、大丈夫だって、言ってほしいの」
強く拳を握ったせいで、手のひらに爪が食い込んで痛い。不安に俯くワカバには、ゼロがどんな表情をしているのか見えなかった。通り過ぎていく学生達の声が遠い。
一秒がとても長く、沈黙が苦しい。息苦しさに溺れそうになったそのとき、ワカバの頬が温かいものに包まれ、ぐいっと力任せに上向かされた。
「ワカバなら大丈夫。できるよ。なにすんのか知らないけどさ、きっと大丈夫。どんなにボロボロになって帰ってきたって、俺達がいるだろ? ――それとも、帰ってこれないほど危ないことしに行くわけ?」
「う、ううん、違う……」
「じゃあ、大丈夫だ。いってらっしゃい。ここで待ってるから。――頑張れ、ワカバ」
両手で顔を挟まれ、額が重なる近さで微笑まれた。
胸が締め付けられる。目の奥が熱くなって、堪えきれない涙が一滴だけ頬を伝った。ゼロの指先を濡らしたそれに彼は困惑の表情を浮かべたけれど、困ったように笑うだけで離れたりはしなかった。
その優しさに胸が詰まる。嬉しくて、苦しくて、さっきとは違った意味で溺れそうだった。
「ぜろぉ……」
「ん?」
「――大好きぃっ!」
「おわっ、ちょっ、ワカバ!」
勢いよく抱き着いて、濡れた瞳を隠すようにぎゅうぎゅうとしがみつく。ここが廊下のど真ん中だということなど、今のワカバの頭には入っていなかった。突き刺さる視線の数にゼロが大慌てしていることも、シュミットが卒倒しそうになっていることも、それらはワカバのあずかり知らぬところにあった。
――きっと、大丈夫。
もしも壊れそうなほど傷ついてしまったとしても、ここに戻ってくれば大丈夫。ここには大切な友達が待ってくれているのだから。心強い上官だっている。だから、きっと大丈夫。
「いってきます!」
その笑顔に、もう涙は浮かんでいなかった。
* * *
どんなに苦しくても、どんなにつらくても。
それでも、楽しかった。
――本物の恋は、してみないと分からない。