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 これはきっと、魔法の手だ。飛行樹を巧みに操るあの手が、ワカバの心までもを操るようにして落ち着かせてくれる。
 仰向きで泣いていたせいで、早々に鼻が詰まって息苦しくなった。ゆっくりと身体を起こせば、いつの間に用意していたのか即座にティッシュを渡される。多少の恥ずかしさはあったものの、ここまでくれば取り繕っても無駄だと思い、ワカバはほんの少し控えめに洟をかんだ。
 睫毛を飾る雫をしっかりと拭って、腫れた瞼はそのままに笑ってみせる。無理なく笑える自分が、どこかおかしかった。

「今日は本当にありがとうございました! ハルナ二尉のおかげで、わたし、なんとかなりそうです」
「それはお前が努力しているからだ。ちゃんと覚えておけ」
「はいっ」

 これ以上優しい言葉をかけられるとまた泣いてしまいそうだったので、ワカバは深々と頭を下げて踵を返した。寮に戻るまで、できるだけ人に会わないルートを通らなければと思っていたその背中に、ハルナの声がかかる。
 足を止めて振り向けば、大人の男らしい、落ち着いた笑みを浮かべた彼の姿がそこにあった。

「お前はきっといい女になる。大丈夫だ、俺が保証する」
「え、あ……」
「おやすみ、ワカバ。俺も艦長も、カガ隊一同、お前がここに来るのを待ち望んでいる。なにかあれば、いつでも頼れ」
「――は、はいっ! ありがとうございます! あのっ、えっと、おやすみなさい!」

 あまりの喜びに、頬が火照る。
 向けられた期待は鳥肌が立つほど嬉しく、傷ついた心を一瞬であたたかいもので包み込んでいった。
 気恥ずかしさに小走りで退室して、空学寮までの道を一気に駆け抜ける。部屋に戻ったら、真っ先に瞼を冷やそう。ゆっくりとお風呂に浸かって身体をほぐして、明日に備えよう。
 そして、次の休みにはコールをしよう。
 久しぶり過ぎて手が震えてしまうかもしれないけれど、勇気を出してボタンを押そう。
 今度は深夜三時ではなく、日の高いうちに。

 ――大丈夫、怖くなんてないから。


* * *



 休憩室で同僚との会話に花を咲かせていたニノカタは、一人残された途端に笑顔の仮面を脱ぎ捨てた。いっそ仏頂面とも言える表情で携帯端末を弄り、届いていたメッセージに返信する。
 今度の“彼女”は、どうにも構われたがりだ。朝の「おはよう」から始まり、夜の「おやすみ」まで欠かすことはない。正直面倒くさいが、一言二言返信するだけで機嫌がよくなるのなら安いものだ。
 彼女と出会ったのは、一年ほど前のことだ。彼女の中でニノカタは、まさに降って湧いたような王子様だったらしい。大切な鞄を奪って逃げた男を取り押さえた英雄――実際に取り押さえたのは年端もいかない少女だが――として扱われ、最初からキラキラとした眼差しで見られていたことを今でも覚えている。
 連絡先を交換し、そして告白されたのは半年近く前だ。
 同僚達はことあるごとに「ワカバちゃんはどうしたの」「最近見ないね」と言ってくるので、恋人の話題は出していない。歯がゆいことに誰もがワカバ派なので、恋人ができたことを知っているのはヴァハトだけだ。

「そういや、あいつ様子おかしかったな」

 久しぶりに会ったストーカーことワカバは、見るからに軍人といった屈強な男性を連れていた。実際の身長は平均よりも少し上といった程度だが、長身と呼ぶに相応しい雰囲気の男性だった。きりりとした精悍な顔立ちが、狼を思わせる。
 どこかで見たことがあると思っていたら、どうやら彼は空軍では有名な人物だったらしい。メディアにも取り上げられたことのある人物なのだと、あのあと彼女から聞いた。
 彼をただの上官だと言ったその声が、かすかに震えていた。まるで射抜くように睨まれた。その瞳が今にも泣き出しそうで、嫌な予感に頭を掻く。

「……まさか、まだ“そう”だったのかよ」

 ワカバが自分に恋心を抱いていたことは知っている。
 けれどそれは、猫を被っていた頃の話だ。こっぴどく振ってやってからは向こうも本性を露わにし、復讐してやるだの振ってやるだのと息巻いていたではないか。まさか、今になってもまだそんな気持ちが残っているだなんて、想像もしていなかった。
 恋人ができたと知られたら面倒なことになりそうだとは思っていたが、これは斜め上を行く展開だ。
 「軍人舐めんな」と吐き捨てて走り去っていった小さな後姿が、なぜか頭から離れない。十も年下の少女に対する罪悪感がそうさせるのだろうか。
 絵文字で色鮮やかに彩られたメッセージに返信しようとしたところで、握っていた端末が細かく震え始めた。画面いっぱいに表示されていたのが今まさに考えていた相手の名前だったから、心臓が肋骨を突き破らんばかりに飛び上がる。
 一瞬どうしようか考えて、意を決して応答ボタンをタップした。恐る恐る耳にあてれば、記憶にあるものとは違う、少し穏やかな声が「もしもし?」と語りかけてくる。



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