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 確かに彼は言葉通り、ワカバにあの出来事を忘れさせてくれていた。

「お気遣い、ありがとうございます……。あの……」
「無理に話す必要はない。聞いた方がいいなら話せ。他言はしない」

 無造作に腕で汗を拭いながらそう言い、ハルナは寝転がるワカバの隣に胡坐を掻いた。首筋の汗をTシャツの裾で拭ったせいで、綺麗に割れた腹筋が視界に入る。
 あれほどぐちゃぐちゃに絡まっていた感情が、今では嘘のように落ち着いていた。痛みがないと言えば嘘になるけれど、どこか落ち着いて状況を判断することができる。それは紛れもなくハルナのおかげなのだろう。
 全部喋ってしまおうかと思った。出会いから今までのことを、隠すことなくすべて。
 けれど口にしようとすればするほど、言葉はするりと逃げていく。
 そんなワカバを急かすでもなく、ハルナは静かに待ってくれていた。じっとこちらを見て促すような真似はしない。視線は前に据えられており、それだけでとても気持ちが落ち着く。

「……結局は、わたしがどうしたいかってことなんですよね」

 ぽつりと零したその一言に、ようやっと彼の視線がこちらを向く。
 ワカバはぼんやりと天井を見つめたままだったが、それを咎められることはなかった。

「時間は巻き戻せない。だったらどうすればいいのかなって、考えてみたんです」

 ニノカタの隣に立つあの女性は、線の細い、綺麗な人だった。声を荒げたり、ましてや飛び蹴りなんてすることはないのだろう。少なくとも、メスゴリラなんて呼ばれるような人ではないのは確かだ。
 二人が並んでいる姿はとてもよく似合っていて、ワカバのような子どもが入り込む隙などないように見える。
 ――入り込む?
 自然とそう考えた自分に苦笑した。どれほど認めまいとしていても、根底にある事実は揺るがない。

「最終的に、わたしはどうしたいのか。きっと、考えなきゃいけないのはそこなんです。認めたくなくても、どれだけ逃げても、そこにある感情を無視できないのなら、――結局、向き合うしかないんですよね」
「自分がどうしたいか、分かっているのか?」
「……はい、多分。中途半端は嫌なので。たとえどんな結果になったとしても、……そうなるって分かってても、ちゃんと白黒つけておきたいです」
「そうか」

 答えはもう決まっている。
 分かりきったことだ。今のワカバに勝ち目などないし、奇跡の大逆転を望むような夢も見られない。
 ずくりと胸が痛み、額に腕を乗せて溜息を吐いた。
 ――まったくもう。散々振り回された挙句に振られたのは、結局自分の方だ。
 それでも、楽しかった。
 こんなにかわいいワカバを振るなんて信じられない。そんな思いから始まった復讐劇は、日々に彩りを与えてくれた。
 外面だけはいいフローリストがワカバを見るなり一瞬顔を引き攣らせ、それでも取り繕って笑顔を浮かべて対応するところが面白かった。
 花の知識が増えた。ただ会いに行く理由にするために始めた資格勉強だったが、そのうち本格的に勉強して、つい先日無事に試験に合格した。
 友達が増えた。ありのままの自分を曝け出せる友達ができたのは、ある意味ニノカタのおかげだ。かけがえのない出会いができたことを、心から嬉しく思う。

 ――恋をしていた。
 それは少女漫画のようにキラキラとしたものではなく、どこか歪んではいたけれど、それでも確かに恋だった。

 眦を涙が伝う。
 額に当てていた腕を目元にそっとずらして隠したが、鼻を啜る音でハルナにはばれていたのだろう。汗ばんだ頭に大きな手が添えられる。何度か優しくぽんぽんと叩かれ、髪をそっと指で梳かれた。

「いい子だ、ワカバ。今日はゆっくり休め」
「うー……」

 汗をかいているから触らないでと言いたかったのに、言葉にならなかった。これがニノカタであれば、わざわざ言わずとも「汚いから誰が触るか」とでも言ったのだろうけれど、ハルナ相手では言ったところで「気にしない」と返されるのがオチだろう。
 太くごつごつとした指で頭皮を撫でられる感触が心地いい。


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