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荒い呼吸が辺りに響く。
息を切らし、額に浮かんだ汗が珠のようになって零れ落ちていった。力なく投げ出された手足が、指先だけで床を引っ掻いていく。
「あっ……、んっ、もぉ、キツ、」
「まだいけるだろう。――こら、息を止めるな。目をしっかり開けてこっちを見ろ」
「だっ、て、……っ、ハルナ、にぃが、」
喉が痛い。あれだけ絶え間なく声を上げていたのだから当然だ。
たった一言発することも億劫なほど、身体は疲れ切っていた。瞼が異様に重い。髪が肌に張りつく感覚が気持ち悪く、払ってしまいたいのに手が動かない。まるで自分の身体ではないようだった。
胸を大きく上下させて貪るように呼吸するワカバを見下ろし、ハルナは薄汗の滲んだ額を手のひらで撫で上げた。その仕草によって前髪が掻き上げられ、鋭い瞳がより露わになる。
その男らしさに、忙しない心臓が一際大きく跳ね上がった。温められた血液が、凄まじい速さで全身に送り出される。
――忘れさせてやる、と彼は言った。
『つらいのなら、俺と付き合え。忘れたいんだろう? ――どんなことも忘れさせてやる』
真剣な眼差しでハルナはそう言い、問答無用でワカバの手を引いてあの暗がりから連れ出してくれたのだ。力強い手に頭が真っ白になった。
どんな痛みも苦しみも頭から抜け落ち、ワカバを満たすのは困惑だけだった。
そして、今に至る。
ぼんやりとした瞳を彼の前に晒し、ゆっくりと身体を起こすだけで熱の籠もった吐息が零れた。目が合うなり、彼は優しく微笑む。
「さあ、もう一回だ。来い、ワカバ」
差し伸べられた手を取れば、きっとまた頭の中が真っ白になる。
言葉通り、どんなことも忘れられるだろう。
体力はとうに限界を迎えていたけれど、ワカバの手は自然と彼に向いていた。
見えないなにかに導かれるかのようだった。身体が動く。よろめく身体にハルナの熱を帯びた手のひらが触れ、――そして、世界が明滅する。
「まだ甘い! 重心下げろ! 何度言わせれば分かる、ド阿呆がッ!」
act.11:恋は七転び八起き あっさりと床の上に転がされたワカバは、ぜぇぜぇと全身で息をしながらトレーニングルームの天井を睨んだ。これ以上流すと干からびそうなほど汗だくになりながら、一体何度投げ飛ばされたことだろう。
身体のあちこちに走る痛みが、気を失うことも許してくれない。
――ちょっとでも期待したわたしが馬鹿だった。
あの状況であんな台詞を言われて、ときめくなと言う方が無理な話だ。誰だって“そう”思うに決まっている。
例に漏れず色めいた意味で言葉を受け取り、勘違いのまま困惑に身を委ねていたワカバは、ヴェルデ基地まで連れ帰られたあたりで違和感に気がついた。そのままトレーニングルームまで引きずり込まれ、誤解を正す暇も与えられずに適当なジャージに着替えさせられてからは、怒涛の訓練開始だ。
それも礼に始まり礼に終わる武道ではなく、ほぼルール無用の戦闘形式だった。多種多様の近接格闘術を用い、油断すれば一瞬で意識が飛ぶ。なにがどうなったのかも分からない早業で関節を固められ、痛みに喘がされたかと思えば次の瞬間には床に叩きつけられていた。
ハルナ相手に二時間近くそんなことを続けていたのだから、もう全身ガクガクだ。瞬きすら苦痛で、起き上がることなどもうできそうにもなかった。
床に倒れたまま呼吸を落ち着かせていたワカバの顔の横に、ひんやりとしたものが降りてきた。うっすらと瞼を押し上げれば、涼しい顔をしたハルナがスポーツドリンクを手にこちらを見下ろしている。
「少しは気が晴れたか?」
声が枯れるほどに叫んで身体を動かしていたのだから、疲労と引き換えに頭はどこかすっきりしている。なにしろ、ハルナと向かい合っている間は余計なことを考える暇など一切なかった。
よそ事に思考を巡らせる余裕は剃刀一枚ほどの隙間も許されず、集中力が途切れれば叱責と共に身体が宙を舞う。
こうして穏やかな時間が終わったあとですら、「あのときああ動いていれば」と考えてしまうのだから、ハルナの作戦自体は間違っていなかったのだろう。