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「あの……、お二人は、もしかして」
「――ええ。貴女のおかげよ」

 花が、咲く。
 取り零していた種が根を張り、芽を出し、美しい花を咲かせていた。それはワカバの知らないところで、確かに咲いていたのだ。
 目の前から色が消える。冷えていく指先が自分のものではないようだった。
 ――ちがう、大丈夫、そんなんじゃない。ちがう。傷ついてなんかない。ちがう、ちがう、ちがう、

「えっと、あの人はワカバちゃんの彼氏かな? ワカバちゃんは年上が好きなんだね。かっこいい人だし、すごくお似合いだよ」
「……ちがう」

 違う。
 そうじゃない。
 そんなんじゃない。

「ワカバちゃん?」

 柔らかく微笑む姿も、優しく名前を呼んでくれるニノカタもいらない。「年上が好きなんだね」なんて、そんなことを言われたくなかった。
 人前だということも関係なかった。もしかすると、完全に失念していたのかもしれない。
 ぎっと強く睨みつけ、ワカバは眼鏡の奥のたれ目がちな瞳を鋭く射抜いた。

「あの人は上官です。尊敬する方です。そんな浮ついた目で見ないで。あなたと一緒にしないで。……軍人舐めんな!」

 とにかくその場から逃げ出したくて、気がつけば足裏が地面を蹴っていた。
 景色があっという間に移り変わる。背中には三人分の声が投げられたけれど、そんなものには構っていられなかった。今すぐここから逃げ出さなければ、きっととんでもないことになる。
 様々な感情が胸に押し寄せ、大事故を起こしているのだ。押し出されたなにかが表に現れては堪らない。
 人波を泳ぎ、走って、走って、とにかく走り抜けた。ひと気が嫌になり、気配のない薄暗い路地裏に飛び込んだ矢先、強く手首を掴まれて心臓が跳ね上がる。
 驚愕のまま振り向いたワカバの目に飛び込んできたのは、腹の立つ眼鏡の男ではなく、これだけの距離を走っても呼吸一つ乱していない上官の姿だったけれど。
 実体のない期待が潰え、期待していたことに気づいて身が竦む。一体今、自分はなにを考えたのか。

「急に逃げるな、ド阿呆が! 挙句、こんなひと気のない路地裏なんぞに入ろうとしやがって。なにかあったらどうするつもりだ!?」
「え、あ……、ごめんなさ……」

 痛いほど強く掴まれた手首がひどく熱い。
 日は暮れ、外灯の少ない路地裏は大通りと比べると段違いに暗かった。その奥から、何人かが慌てて立ち去る気配がする。

「まったく……。さっきの二人は知り合いか? なにか言われたのか」
「ちが、……違うんです、別に、なにも。ほんと、なんでもなくて」
「なにもないならなんで逃げた」
「それは……。だって、違うんです、ほんとに」

 違う。それしか言葉が出てこない。
 ニノカタはワカバを好きになって、そしてワカバは彼を思い切り振ってやる。それが思い描いていた理想の未来図だ。ワカバに夢中になるのは彼の方であって、ワカバから彼に気持ちが傾くことなどありえるはずがなかった。
 そんなわけがない。好きなわけがないのだ。だからあの女性とニノカタが付き合っているからといって、ワカバが傷つくはずがない。
 胸が痛いのは、走ったからだ。走ったのは、逃げ出したかったからだ。逃げ出したかったのは、――いいや、違う、そんなわけがない。

「やだ、……違う、ちがうもん、あんな奴のこと、好きなんかじゃ、」
「ワカバ?」

 もう目の前にいるのが誰か、そんなことすら分からなくなっていた。
 脳裏に浮かぶのは忌々しいニノカタの顔ばかりで、ごちゃごちゃになった感情に押し出されて涙が頬を滑り落ちていく。
 苦しい。痛い。ちがうのに。好きなんかじゃないのに。そんなこと、あるはずないのに。

「どうしよう、忘れなきゃ。だって違うもん、好きじゃないもん。あんな奴のこと、はやくわすれなきゃ」

 痛くない、大丈夫。苦しくない、平気。
 必死に言い聞かせているのに、涙が止まらない。
 鞄に着けたバッグチャームが揺れている。いつまでも枯れることのないそれは、あの日咲いた気持ちそのものだ。
 ピンクのガーベラの花言葉はなんだっただろうか。何度も何度も本で読んで確認した。あの本は、ニノカタと出会って間もない頃に買ったものだった。

「ちがう、あんなの、すきなんかじゃないもん……!」
「ワカバ!」

 ぎゅっと強く瞑った目を抉じ開けたのは、一際大きな声と身体を揺さぶる強い衝撃だった。ずっと掴まれたままだった手首が、溶けあうような熱を持っている。もう片方の手で肩を掴まれ、俯いていた顔は呼びかけに応じて自然と上を向いていた。
 滲んだ視界の向こうに、真剣な眼差しのハルナがいた。そこでようやっと、自分は上官の前でとんでもない失態を犯したのだと自覚する。慌てて取り繕おうとしたのに、彼は涙を拭うことすら許してはくれなかった。

「す、すみません、ハルナ二尉。あの、もう大丈夫ですから、離してくださ、」
「大丈夫な奴がそんな風に泣くか」
「これは、その、」
「――俺が忘れさせてやる」

 至近距離から降ってくる真剣な眼差しに、呼吸が止まる。
 逆光が、彼の前髪越しに光を落とした。

「つらいのなら、俺と付き合え。忘れたいんだろう? ――どんなことも忘れさせてやる」


 零れ落ちそうなほど瞠られた瞳から、ほろり、涙が光った。


(2015.1001)


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