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「私は少し、残念に思っていたんですよ。せっかく貴方といるのに、その時間が削られたような気がして」
「報告は義務だ」
「……父自慢の、優秀な部下でしたものね」

 もう二十年以上昔の話だというのに、つい先日の話のように思い出せてしまう自分がおかしかった。年甲斐もなく小指の爪の先ほどの拗ねた気持ちが生まれ、ズイホウはイセに少しだけ意地悪をすることに決めた。
 こちらを見ようともせずに図録に夢中になっているイセの隣に腰を下ろして、なんでもないことのようにさらりと言い放つ。それが彼にとってどれほどの威力を持つ爆弾か、この年になれば十二分に予測できていた。

「アキってば、マトメくんに『愛してる』って言われたんですって」
「は!?」
「随分と浮かれていましたよ。最近では、デートのたびに『好きだ』って言ってもらっているようです。素敵ですね」
「そんな浮ついた言葉をぺらぺらと抜かす男にろくな奴はおらん」
「でも、出会ってから二十四年間、ただの一度も言われたことのない私からすれば、とても羨ましいと思ってしまいますけれど」

 ふぐぅ、でも、うぐぅ、でもない妙な音が隣の男から聞こえてきた。お茶を出さなくて正解だったと思いながら、ごほごほと噎せるイセの背中をさすってやる。
 やっと咳が落ち着いてきた頃のイセの目といったら、それだけで人を殺せそうなほど鋭かった。知らない人が見たら裸足で逃げ出したくなるだろう形相だが、これが怒りではなく照れと困惑によるものだと一体何人の人間が分かるのだろう。

「お前……」
「ふふ、ごめんなさい。少し意地悪が過ぎましたね。お茶を淹れますから、機嫌をなおしてくださいな」

 悪戯が成功して、それだけで気持ちがすっと軽くなった。出会ってから一度も愛の言葉を囁いてもらったことはないけれど、そんなものはなくても彼の気持ちは理解しているつもりだ。不安に思ったことがないとは言えないが、この年になれば神経も随分と太くなる。
 珍しく動揺するイセの姿が嬉しくて、浮かれた足でキッチンに戻ろうとしたズイホウの左肘に、ぎりっとした痛みが走ったのは次の瞬間だった。気がつけば足裏が宙を蹴り、柔らかな衝撃が尻から訪れる。つい先ほどまで座っていたソファに尻餅をついたらしいが、その理由はめまぐるしく切り替わる視界によってすっかり分からなくなっていた。
 背中が温かい。肩を掴む大きな手は、あの頃と変わらず力強い。

「い、いせ……?」

 あなた、お父さん。
 子どもが生まれてからはそう呼ぶことの方がずっと多くなっていたのに、こういうときは自然とあの頃に戻る。
 猛禽の眼差しに貫かれ、若さとは随分と昔に別れたはずの胸があの頃のようにとくんと高鳴った。

「………………なんでも、ない」

 考えに考えて、結局イセはそう言ったきりなにも言わなかった。溜息と同時に肩に押しつけられた額に、淡い期待と緊張が霧散する。白髪の混じり始めた髪を優しく撫でてやりながら、ズイホウは長年連れ添った夫の胸に背を預けた。
 身体を傾ければ、いとも容易く支えてもらえる。腹に回った手に己の手を重ね、五十になっても依然として逞しい腕に安堵を覚えた。

「ねえ、イセ。今度、どこか旅行へ行きませんか。いつか、貴方のお仕事が落ち着いてから。二人でゆっくりしましょうよ。誰からのコールも気にしないで、のんびりと」
「……ああ、そうだな」
「楽しみにして待っていますね」
「ああ」

 なにを話すでもなくただ身を寄せ合うこと、しばらく。
 気配に敏いイセがどれほど気を抜いていたのか、彼は部屋から出てきていたアキサワが愕然としてこちらを見ていることに気づいていなかった。イセでさえ気づかなかったのだから、ズイホウは当然気づかない。
 腕の中の心地よさに緩めていた口元は、このあと突然の怒声によってぽかんと開くことになるのだけれど。

「なによ……、あたしにはあんっな偉そうなこと言っといて、自分は年甲斐もなくイチャイチャしてんじゃないの!!」
「なっ……、夫婦だから当然だろう!」
「イセ、イーセ。娘に見られて恥ずかしいのは分かりましたから、いったん落ち着いてくださいな。もっと恥ずかしいことになりますよ」
「そこで開き直る!? あーもう信じらんない、お父さんのむっつりスケベ! 変態親父! キモい!!」
「アキも。そんなこと言わないの。確かにそういうところもあったけれど、」
「あったの!?」
「ズイホウ!」

 驚愕の声が二人分、とても綺麗に重なった。
 焦るあまりズイホウを抱いたまま離せないでいるイセに笑顔で振り返り、どこか得意げな目を最愛の娘へと向ける。

「羨ましかったら、貴女もお母さんみたいに幸せな結婚をなさいな」

 小さく呻いてから同時に押し黙った夫と娘に、よく似た父娘だとズイホウは声を立てて笑った。



【2015.0830】

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