10 [ 174/193 ]
うぐぅと呻いた父に朗らかに笑いかけ、ズイホウは関係が変化して数ヶ月目に差し掛かった年上の恋人のことを思い浮かべた。彼は今頃、なにをしているのだろうか。
付き合うようになったと言っても、二人の距離感が劇的に縮まるようなことはなかった。
イセは言葉こそ砕けたものになったが紳士的な態度を崩さなかったし、なにより二人きりでゆっくりとどこかへ出かけるような時間はなかなか取れない。その代わり、イセには少し胃が痛い状況だろうが、仕事終わりにミズサキと一緒に家に帰ってきて夕飯を共にすることが増えていた。三人で囲む食卓は決して賑やかとは言い難いものであったが、ズイホウにとってはなによりも楽しい時間だったと言えよう。
明日は金曜日で、翌日はミズサキ隊の公休日だ。
つまりイセが食事に来る日でもあり、加えて初めての泊まりの予定日でもあった。泊まりと言ってもイセの布団は客間に用意するし、ミズサキ自身が「一晩中目を光らせておくからな」と断言しているので、父が危惧するような“なにか”が起こるはずもないのだ。
「大体、未婚の男女が一つ屋根の下に寝起きするなんてふしだらな」
「お父さん。私、もう少しで私生児になるところだったんじゃなかったっけ?」
「ぐ……、それはだな」
「当時じゃとても珍しかったんでしょうね。未婚の女性が妊娠するだなんて。風当たりだって強かったでしょうに」
「それは、その、結婚を申し込む直前に、臨時の長期任務が入ってだな……」
「お父さん、さっき自分が言ったこと、もう忘れちゃった?」
にっこり笑って問えば、ミズサキはきまり悪そうに口を噤んで押し黙った。こうなっては謝罪も訂正の言葉も引き出せないとは知っているので、ズイホウもあえて追撃はしない。変に機嫌を損ねて明日の楽しみがなくなる方がずっと嫌だからだ。
机の上に完成したおかずを並べてご飯をよそっていると、それまで拗ねたようになにも喋ろうとしなかったミズサキがゆっくりと重たい口を開いた。
「……お前は、あれを――イセを、どう思っている」
「どうって……。もちろん、大好きですよ。あんな素敵な人が私の傍にいてくださるだなんて、幸せすぎてどうにかなってしまいそうなほどだもの」
「あれは、軍人だ」
「今さらなに? そんなこと、もうとっくに、」
「俺と同じで、常にお前の傍にいることはできない。お前が一番つらいとき、助けが欲しいとき、あれはお前を置いて他人を助けに走る。俺達は、そういう仕事をしている」
湯気の立つ玄米ご飯は、ミズサキ気に入りのものだ。イセは五穀米の方が好みらしいので、明日は必然的にそちらを用意することになる。
いつもと変わらぬ食卓をざっと見回して、ズイホウは笑顔のまま手を合わせた。そのまま食事を始めようとすると、ミズサキが焦れたように咳払いをしてズイホウの動きを止めた。
見上げれば、真剣な眼差しがそこにあった。憂うような、気遣うような、それでいてどこか縋るような。そんな、目だった。
「せっかく作ったのに、冷めちゃうじゃない。あったかいうちに食べてほしいんだけれど」
「ズイホウ」
「……はあ。まったくもう。あのね、お父さん。私、もう二十年もお父さんの娘やってるんだよ。ずっと見てきた。寂しい思いだってしたよ。どうして私を置いてどこかへ行くのって、恨めしく思ったことだって確かにあった。でもね、分かってるの」
ずっと、その背を見てきたのだ。
「貴方達には、“帰る場所”が必要なんだって」
その一言がよほど予想外だったのか、ミズサキは大きく目を見開いて固まった。
「そうじゃない人ももちろんいるんだろうけれど、私の知ってる軍人さんは生き急いでいるような方が多いようだから。どんなに危険でも、命懸けでも、必ず帰るって思ってもらわないと困るの。行ったら行きっぱなしだなんて許さない。お父さんだって、私がここにいて『ただいま』って言わないと、帰ってくる楽しみが減るでしょう?」
「……いつ死ぬか、分からんぞ」
「それは私も同じこと。軍人さんの方がリスクが高いってだけでしょう」
「家族にさえ連絡なく、長期任務に就くこともある」
「そんなこと慣れてる。それでもずっと、待ってるから」
「……軍人には、ろくな奴がおらん」