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「もう、本当に申し訳ありません……どうして、もう、こんな。一体なんとお詫びすればいいのか。きつく叱っておきますから、どうかお許しください」
「貴女が気にすることはありません。どうやらこれは、私の義務らしいので」
訳が分からないとズイホウの濡れた瞳が瞬く。涙の珠が輝く目元に愛おしさを覚え、イセは切れた唇の端が痛むのも構わずに微笑んだ。
「貴女に交際を申し込むには、この義務を果たす必要がありましたので」
「は……? え、こうさい……、こっ!?」
「受けていただけますか」
「はっ、はい……。はい……!」
イセのために持ってきた濡れタオルの己の顔に当てて覆い隠し、ズイホウはその場にへなへなと崩れ落ちてしまった。部屋の中は暖房が利いているとはいえ、夜の廊下は随分と冷える。立ち上がらせようと差し伸べた手を、彼女は遠慮がちに――けれどしっかりと握って、座り込んだまま潤んだ瞳でイセを見つめた。
耳まで真っ赤になりながら、涙の零れる瞳で彼女はか細く言う。
「……もう遅いですし、お泊りになられますか?」
もちろんそこに他意などないのだろうけれど、一瞬どきりとしたことも誤魔化しようのない事実だ。背後の部屋から聞こえてきた大きないびきがなければ、どうなっていたかは分からない。
ひたむきな眼差しがほんの少し恨めしく、イセはこのとき、彼にしてはとても珍しい悪戯心を発揮した。優しく手を引いて彼女を立たせ、乱れた髪を耳に掛けてやりながら、その小さな耳朶に向かって低く囁いたのだ。
「いや、遠慮しておこう。まだ命は惜しい」
出会ってから今まで、イセが自覚している限りただの一度も丁寧な言葉を崩したことがない。今までは上官の娘として最適な距離を保ってきたつもりだったが、公認の上で交際することになったのだからこれくらいは許されるだろう。
指先でゆっくりと耳から首筋をなぞって、彼は小さく――本当に小さく、笑った。
「――おやすみ、ズイホウ」
薄桃色の撫子の花が、その一瞬で赤く染まる。
到底人の声とは思えない奇怪な音が目の前の女性から漏れたけれど、イセは構うことなく玄関を目指して踵を返した。このまま平静を保って彼女と会話を続ける度胸はなかったし、慣れないことをしたむず痒さで一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
大通りに出れば、タクシーくらい捉まるだろう。足早に玄関を出たイセに、小さな足音が追いかけてくる。振り返れば、肩で息をしているズイホウの姿がそこにあった。逆光になって彼女の顔は見えないけれど、きっと真っ赤に染まったままに違いない。
「おっ、おやすみなさい! いっ、い、い、いせっ…………さん」
蚊の鳴くような声で付け足された「さん」に、あのとき頷いておけばよかったかと後悔したことを、このときのイセは一生誰にも語ることはないだろうと、そう思っていた。しかし現実はそう甘くはない。
けれど確かに、そのときが来るまで彼は誰一人として話すことなく、たった一人でその夜の思い出を胸に秘めていたのだ。数十年の月日を経て、酒に飲まれた彼が酔いに任せて“あの二人”に語るその日までは、たった一人で。
* * *
今日は珍しく、ミズサキの帰りが早かった。
台所で魚を煮ていたズイホウの背に先ほどから何度も物言いたげな視線が向けられていることには気づいているけれど、用事があるのならはっきりと口にするまでは知らんぷりだ。気づくからといってなんでも先回りすると、ミズサキは伝えることをさぼってしまう癖があるからだ。「言われなくても分かる」けれど、「言わなくても分かれ」と訴えられるのは好きではない。
そんなズイホウの頑なさを知っているからこそ、ミズサキはより一層もどかしげな様子で念を送ってくる。こうなるとあとはもう根競べだった。今までの勝敗は五分五分だったが、どうやら今回はズイホウに軍配が上がったらしい。
「……明日、あいつが来るのか」
「あいつって?」
「あいつはあいつだ! あの目つきの悪い男しかおらんだろう!」
「ちゃんと言ってくれなきゃ分からないもの。それに、イセさんは目つきが悪いんじゃないの。鷹とか鷲みたいに鋭くてかっこいいの。――あ、お魚もうすぐだからお皿用意してもらってもいい?」
特殊飛行部では峻厳な態度で畏敬の念を抱かれているミズサキも、家に帰れば空の皿を片手に娘の手伝いに駆り出される。