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「では、一つ我儘を言ってもかまいませんか? それを叶えていただければ、もうこれ以上の“お詫び”はいりません」
「分かりました。――どうぞ」
「ええと、その……、少し距離が遠く感じてしまうので、その、つまり……“お嬢さん”、をやめていただきたいんです」
「え?」
「私にも名前がありますので、そちらで呼んでいただけると、とても嬉しいなととてもすごく思うのですけれども……!」

 緊張で言葉が無茶苦茶になっている自覚があったが、ここで躊躇えばもう二度と切り出す勇気が出ないことは見えていたから、勢いに任せて吐き出した。イセの目が見れない。買ってきてもらったアイスティーの水面を凝視しているズイホウを、彼は一体どんな顔をして見ているのだろう。
 迷惑がっているだろうか。困っているだろうか。なんだこいつ、と不機嫌になってはいないだろうか。
 不安が増してより俯いたズイホウの耳に、溜息未満の軽い吐息が聞こえたような気がした。

「……ズイホウさん」
「はっ、ひ!」
「ズイホウさん? 大丈夫ですか?」
「だっ、大丈夫ですっ! すみません、少し噎せてしまって!」

 まだ一滴も飲んでいないのになんて言い訳だと自分でも思ったが、裏返った声を誤魔化すにはこれしかなかった。恥ずかしさのあまり両手で顔を覆ったが、その仕草が余計に子どもじみていることに気がついて地中深くに埋まりたい衝動に駆られる。
 半ば逃げ出したくて涙目になっていると、小さな笑声が耳朶を震わせた。

「面白い人だ、貴女は」

 そっと開けた指の間から、くすくすと笑うイセが見えた。
 鋭い双眸が柔らかく細められ、弧を描く。持ち上がった頬に、零れた白い歯に、ズイホウの目は一瞬で奪われていた。
 ――この人がいい。この人しか、いない。
 あのとき思ったのと同じ感情が、より濃さを増して頭の先から足の先までを余すことなく満たしていく。
 細められていた目がぱちくりと瞬き、不思議そうにズイホウを見た。たったそれだけで、ただでさえも早鐘を打っていた心臓がより一層速度を増して血液を暴走させる。これ以上はもう無理だ。そう思うのに、もっと味わいたい。

「…………すきです」

 彼の耳には届かないようにと、ズイホウは唇だけでそう呟いた。


* * *



 まるで撫子の花だ。
 小さくて愛らしく、華やかで。
 そんなことを思っていたら、「撫でたくなるほど可愛らしいことから撫子の名がつけられました」と植物園の展示パネルに書かれていて、思わず渋面を作った。口にしなくてよかった。そしてこれからも口にすることはないだろう。
 説明と一緒に記されていた花言葉を見て、どこか納得したことも。
 きっと何年経とうとも、自分は一生口にすることはないだろう。


* * *



「それで、どうなんだ」

 艦長のミズサキに話があると呼び出され、イセは一年前のあの日を思い出しながら彼の運転する車の助手席に乗り込んだ。辿り着いたのは個室が売りの座敷の居酒屋で、ミズサキは席に通されるなり迷わずビールを注文した。どうやら帰りは自分が彼を送ることになるらしい。
 イセの頼んだ麦茶を待つまでもなく、彼は一息にジョッキを飲み干してテーブルに底を打ちつけた。まだ酔うには早いだろうに、その目はすっかり据わっている。

「どう、とは……」
「最近ズイホウが口を開けばお前の話ばかりしている。お前らを引き合わせてからもう一年だ。どうなっている」
「それは……」
「言っておくが嘘は好かん。下手な誤魔化しを口にしてみろ、舌引っこ抜いて感染獣の餌にしてやる」

 二人の関係に嘘を吐く必要などなかったし、また、どうなってもいないのが事実だった。だがそれを嘘偽りなく述べたところで、ミズサキは疑いの目を向けることだろう。
 ならば――。イセは、ここ数ヶ月思い悩んでいた台詞を口にすることを決意した。

「お嬢さんに、交際を申し込もうと考えておりま――」

 最後まで言い切る前にバシャンと小気味のいい水音がした。発生源は他でもない自分からだ。ぽたぽたと滴る香ばしい香りの液体は、たった今運ばれてきたばかりの麦茶だろう。目の前で起きた惨状に、アルバイトだろう店員がすっかり青褪めてしまっている。
 こうなることは予想の範疇内だ。冷静におしぼりで顔を拭くイセに、ミズサキは般若の形相で力強くテーブルを叩いた。

「一年もあってまだ申し込んでなかったのか貴様! 腑抜け!」
「申し訳ありません」

 その一年の間に長期任務が二回入ったことも、イセが昇級試験に向けて忙しくしていたことも知った上でのこの発言である。なにより、一年以内に交際の申し込みをしていれば、それはそれで「未成年の娘を相手に」だの「手が早い」だのなんだのと怒鳴られていたことだろう。
 怯えきった店員が替えのおしぼりを持ってきた頃合いで、ミズサキは再び声を荒げた。



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