6 [ 170/193 ]


「――おはようございます、イセさん。すみません、お待たせしてしまいましたね」
「おはようございます。今来たばかりですので大丈夫ですよ。お嬢さんこそお早いですね」

 声をかけた瞬間、イセは驚いたような顔をした。まさか十五分前に現れるとは思っていなかったのだろうか。しかし父から「最低でも五分前行動を厳守しろ」と言われて育ってきた以上、待ち合わせをするとどうしても予定時刻よりも早くなる。けれど、よく考えてみればイセはそんな父の直属の部下だ。下手をすれば娘のズイホウよりも長い時間一緒にいるのだから、父の教えが彼に染みついているのも当然だろう。
 三ヶ月ぶりに出会ったイセは、黒いシャツにグレーのパンツを合わせたすっきりとした装いをしていた。細身ながらもしっかりと締まった体型が感じられるその姿に、隣に並んだ途端じわりと顔が熱くなる。二十六歳という年上の男性がもたらす空気は、十九のズイホウにとって未知のものだった。
 駅からそう離れていない植物園のゲート前に並んでいる間、会話の糸口を探してズイホウは必死で話しかけた。

「ああでも、本当にお久しぶりですね。お忙しい中お時間を下さり、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそわざわざ出てきていただいて嬉しく思います。何度も予定を変更してしまい、申し訳ありませんでした。さぞお気を悪くさせてしまったことでしょう」
「いいえ! そんなことありません。その、父がああですから、軍属の方が不測の事態で動かれることも十二分に理解しています。父なんて連絡もなく一ヶ月以上家を空けることもあったというのに、イセさんはわざわざご連絡くださったじゃありませんか。とても嬉しかったです」
「それは……」

 約束したのだから当然だとでも言いたかったのだろうが、そう言ってしまっては連絡を入れないミズサキを批判することになるとでも思ったのだろう。イセは結局なにも言わず、頭を軽く下げるだけにとどまった。
 相変わらず会話はない。ズイホウがなにか訊ねればきちんと答えてくれるし、耳を傾けてくれるけれど、彼の方からズイホウになにかを訊ねることはない。上官の娘だから仕方なく相手をしてくれているのだろうかと落ち込みかけた矢先、ズイホウの目の前に美しい花が印刷された入場券が差し出された。

「あっ、ありがとうございます。ええと、確か1800ユドルでしたよね」
「いえ、結構です。どうぞ」
「え、でもっ」
「お詫びだと思って受け取ってください。――行きましょう、お嬢さん」

 財布を片手に固まってしまったズイホウを有無を言わさず視線で促し、イセは先に入場ゲートをくぐってしまった。向こう側から振り返るその視線に、足が勝手に走ろうとして理性でそれを封じ込める。そんなはしたない真似はできない。落ち着いた足取りで再び彼の隣に並んだズイホウは、腰からしっかりと折り曲げて礼を言い、イセの言葉に甘えることにした。
 ――イセさんが買ってくれた、入場券。
 撫子の写真が印刷された入場券は、折れないようにしっかりと財布の中に仕舞ってある。これはきっと一生の宝物になるだろう。
 背中に羽でも生えたかのような軽い足取りで入った植物園は、日頃味わえないみずみずしい緑気に満ち溢れていた。鼻腔をくすぐる天然の甘い香りに、湿った土の匂い。風に揺れる草花の鮮やかさに目を奪われる。
 本物の緑とは、こんなにも美しいものなのか。白く無機質な花は冷たい印象を受けるのに、同じ花でも色がついているだけでこんなにもあたたかく感じるものなのか。小さな子どものように目を輝かせるズイホウの傍らで、イセは静かに花を眺める。時折その眼差しがとても優しくなることに気づいたズイホウは、とてもあたたかい気持ちで胸がいっぱいになった。

「お嬢さん、少し休憩しませんか。随分と歩いたでしょう」
「え? あ、そういえば……」

 夢中になっていたから分からなかったが、広大な敷地を持つ植物園は全部見て回ろうと思えば相当歩くことになる。案内された園内ベンチに腰かけた途端、ズイホウは己の足が疲れていることを自覚した。イセがこの程度で疲れているとは到底思えないので、どうやらこの休憩は自分を気遣ってくれたものらしい。
 少し待つようにと言い置いてどこかへ行ったイセが、しばらくして両手に紙コップを持って戻ってきた。近くの売店で買ってきてくれたそれは、当然ながら代金は受け取ってくれなかった。

「なにからなにまですみません……」
「気になさらないでください。何度も予定をふいにしてしまったお詫びだと思っていただければ」
「お詫びだなんて、私は本当に気にしてなんて……。あ、」

 お詫びだと言うのなら。
 なにかしなくては気が収まらないというのなら、してもらえばいい。



[*prev] [next#]
しおりを挟む

back
top

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -