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 たった一度しか会っていない相手に失礼な話だとは思うが、ズイホウの頭にしょげた犬の耳が浮かんで見えたのだ。
 大丈夫だと告げれば、ほんの僅かに声が安堵の色を帯びる。
 気がつけば、話はなぜか休日に出かける予定を組み始めていた。ミズサキの般若のような形相が脳裏をよぎったが、恐る恐る伺うようにはしゃぐズイホウの声を聞いていると、無碍に断ることなどできそうもない。
 出かけることになれば、ミズサキには報告しなければならないだろう。日付と場所、そして帰宅予定時間まできっちり報告させられるに違いない。それを煩わしいとは思わなかった。むしろそうすることが当然だと思っていたイセは、だからこそ自分がミズサキに選ばれたのだということに、数十年の月日が経っても気づかないままでいる。



 ところが一週間後の週末に予定されていた外出は、緊急任務が入って直前のキャンセルとなった。忙しい中なんとか時間を捻出してコールしたとき、ズイホウは最初の第一声こそ「まあ……」と沈んだ声を出したものの、すぐにこちらを労う言葉をかけ、恨み言一つ漏らすこともなかった。
 延期した次の予定も、そのまた次の予定も同じように一方的な都合でキャンセルとなったにもかかわらず、彼女はそのたびに「こちらは気にしないでください」と笑い、心底こちらを気遣う声音で「どうぞお気をつけて」と祈るように言って通話を切ったのだ。
 無事に任務を終えてコールをすると、出た瞬間の彼女は一瞬硬い声音で「はい」と言う。そのとき、彼女は紛れもない軍人の娘であることを確信した。以前、ミズサキが怪我を負って緊急入院を強いられたことがある。その際、娘のズイホウにはミズサキの携帯端末を使用してコールが入れられた。
 彼女はもう知っているのだ。表示されている名前の持ち主からのコールが、場合によっては違う人間の声で悲報を告げる可能性があることを。
 できるだけ優しい声で名乗ると、たったそれだけで彼女の声から緊張と不安が溶けて消えていく。

『――イセさん』

 おはようございます。こんにちは。こんばんは。
 名前のあとに続くのはそんな他愛のない挨拶だというのに、安堵の滲んだ吐息はそれ以外の言葉を運んでくるようでむず痒い。ズイホウの方から次の予定を急かすようなことはなく、彼女はいつも「イセさんのご都合の合う日がありましたら」と言ってくれた。
 そうして予定を立てること四度目にしてやっと――時間にすれば三ヶ月の時を経て、ようやく二人は再会することになったのである。


* * *



 ああ、よかった。朝起きてまず一番に思ったことがそれだった。
 カーテンの向こうには美しい秋晴れの空が広がり、天気予報を確認しても今日は一日晴れ間が続くようで、雨は降りそうにない。やっと待ちに待った“デート”の日に、ズイホウの心は浮かれきっていた。
 初めて予定を立てた日はまだ初夏の頃だったから、あのとき用意していた服はもう着れない。約束の日を更新していくうちに、用意する服も更新してきた。今日の日のために買った紺地のワンピースは小花柄が散っていて、少し大人びたデザインだ。年上のイセの隣に並ぶには多少背伸びをするくらいがちょうどいいと思って必死で選んだ。
 ミズサキは振袖で行けと最後までしつこかったが、植物園に着物で出かける勇気はない。それもデートでそんな恰好だなんて。丈が短いだの布が薄いだのとうるさい父をなんとか宥めて家を出る頃には、緩む頬を押さえるのに全神経を使わなければならなかった。
 気がつけば待ち合わせの十五分前に駅についてしまっていて、少し早すぎたかと一人苦笑したズイホウは、改札前に立つすらりとした男性の姿を見て鞄を取り落としそうになるほど驚いた。誰に見られているわけでもないのにまっすぐに伸ばされた背中。あの立ち姿を、間違えるはずがない。
 慌てて物陰に隠れ、ズイホウは深く息を吸って手鏡を確認した。前髪の乱れを整え、口紅が歯に移っていないかを入念にチェックしてから、緊張で震える手をぎゅっと強く握ってから一歩を踏み出した。その一歩がどれほど勇気のいるものだったか、彼女はのちに幸せそうに語ることになる。

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