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 心臓が子兎のように跳ね回っている。いいや、子兎なんてものじゃない。これはもう暴れ馬か牛くらいの勢いだ。
 そんな馬鹿なことを考えながら、ズイホウは鏡にめり込みそうなほど顔を寄せて口紅を引いていた。手が震えるせいで何度か失敗しそうになって、そのたびに小さな悲鳴を上げて慌ててティッシュを引き出す。なんとか化粧を終え、あらゆる角度からおかしなところがないかを確認し、ふう、と息を吐いてスカートの裾をパンッと払った。
 本当は着物の方が華やかだけれど、あまりお待たせするわけにもいかない。とっておきのよそゆきのワンピースを着てみたものの、あまり見慣れない姿なだけあって似合っていないのではないかと不安になる。これを買ったときに付き添ってくれた友人は可愛いと言ってくれていたので大丈夫だろうけれど、と自分に言い聞かせ、ズイホウは勇気を出して自室を出た。
 父が突然見合いだと言って連れてきたその人は、客間に座布団も敷かずに正座していた。父も父で勧めないからそのままだ。おかげで、茶を運び入れたズイホウははじめましての挨拶よりも先に「お使いください」と座布団を勧めるはめになった。
 きちんと一礼し、その人は畳に手をついてから膝を浮かせて身体を運ぶ方法で座布団に乗った。ズイホウ自身は幼い頃から躾けられてきたことだったが、こうしたマナーを知っている若者はあまり多くない。ぱちくりと目を瞬かせていると、なぜかミズサキが悔しげに唸っていた。

「ええと……、父が突然申し訳ありません。私は娘のズイホウと申します」
「こちらこそ、お気遣いをありがとうございます。私は、ミズサキ艦長の部下で、イセと申します」
「まあ、貴方が? 父からお話は伺っております。とても有能な方なんだとか」
「恐縮です」

 上座で湯呑を割らんばかりの強さで握り締めているミズサキを視界に収めながらも、ズイホウは浮かれた気持ちを隠せなかった。怜悧な瞳も、薄い唇も、すっきりとした顎のラインも、男らしく筋張った大きな手も、そのどれもがぴたりと好みに一致する。父には理想の男性像など語ったことがなかったというのに、なぜ分かったのだろう。
 それにしても、突然見合いだなんて一体どういうつもりだろうか。ズイホウは今年十九になったばかりで、一般的に見て結婚を焦るような年齢でもない。ズイホウ自身もまだまだ先の話だと思っていたから、こんな話が持ち込まれるだなんて予想もしていなかった。
 自己紹介が終われば自然と沈黙が満ち、どちらもぴたりと唇を閉ざしてしまう。そんな若者達に痺れを切らしたのか、ミズサキが低く唸った。

「……お前達、見合いをなんだと思っている。なんでもいいから話せ」
「もう、お父さん。急にそんなことを言われても、イセさんだって困ってしまうでしょう。私だって驚いたんだから。急にどういうつもり?」
「どういうつもりもなにも、言っているだろう。見合いだ。さっさと話せ」
「そうは言っても、お父さんがいたらイセさんだって気軽にお話できないでしょう」
「俺がいては困るようなことをするつもりか!?」
「そうじゃないってば! イセさんに失礼でしょう、お父さん!」

 ぴしゃりと叱りつけた途端、ミズサキは顔を真っ赤にして口髭を震わせ、湯呑を座卓に叩きつけて部屋を出ていってしまった。相変わらずの気の短さだ。短気さと突拍子のなさにはズイホウは慣れているけれど、突然上官の家に招かれたイセの方はどうだろうか。ちらりと伺い見れば、彼は無表情ながらも困惑の眼差しを戸口へと向けていた。
 あとでまた叱らなければと頭の中のメモに書き加えながら零れた茶を拭き、ズイホウはきちんと居住まいを正して深々と頭を下げた。

「イセさん、本当に申し訳ありません。父がとんでもないご迷惑をおかけしたようで」
「いえ、気にしないでください。どうか頭を上げて」

 しかし会話はそれきりで、部屋には秒針が時を刻む音と茶を啜る音しか聞こえてこない。
 こんなとき、どんな会話をすればいいのか分からないことが悔しかった。父の勧めで中学高校と女子高に通っていたし、その間に誰かと交際することもなかった。今通っている大学は共学だけれど、きちんとした部活以外のサークル参加は固く禁じられているため、あまり異性と出会う機会もない。
 言ってしまえばこれが初恋だ。――恋。唐突に浮かんできたその単語に、ぼっと火がついたようにズイホウの頬が火照った。そうだ、きっとこれが恋だ。けれど悲しいかな、相手は上官に連れてこられた真面目な部下で、この状況をよくは思っていないに違いない。


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