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『――イセか。今、時間はあるか』
「はい、大丈夫です。どうかなさいましたか」
『外に出られる格好に着替えて、1800に駐車場に来い。遅れるな』
「え、――はい、了解しました」

 腕時計を確認したが、今の時点で1746――17時46分だ。どうやらよほど急ぎの要件らしい。ここで「一体なにが、」などと聞くほど、イセは気の回らない人間ではない。説明ならば会った時点でされるのだろうと踏んで、とにかく急ぐことを優先した。
 急ぎ足で部屋に戻り、少し思案して糊の利いたシャツに腕を通す。ミズサキの言う“外に出られる恰好”がどの程度のものを指すのかははっきりと分からないが、だらしのない格好は論外だろう。もっとも、イセは流行りの恰好とは無縁の人間だったので、私服は無地のTシャツかワイシャツしか持ち合わせていなかったのだけれど。
 髪を乾かしている時間はなかったので、大雑把にタオルで水気を取ってから櫛で適当に撫でつけた。財布と携帯端末をしっかりズボンのポケットに捻じ込み、駐車場へと走る。
 急いだおかげで指定時間の五分前には到着したが、そこにはすでにミズサキの姿があった。遅れたわけでもないのに「遅くなりました」と謝罪の言葉が唇を割る。
 厳格な性格を体現したような風貌のミズサキは、鋭い瞳でイセを一瞥し、無言のまま顎で一台の車を指し示した。それが公用車ではなくミズサキ自身の車だったものだから、その驚きが表面に現れたのだろう。ミズサキは不機嫌を隠さない声で一言「乗れ」と厳しく命じた。
 一体なんの用だろうか。訝りながらも運転席へ回ろうとしたイセに、彼はまたしても一つ舌打ちして助手席に座るように言った。自分の車を他人に運転させたくないのかもしれないが、艦長に運転させて自分は助手席に座るなど、今まで経験がないだけに居心地が悪すぎる。

「……あの、艦長、これからどちらへ向かわれるのですか」
「お前、交際中の女はいるか」
「え? あ、いえ、おりません」
「だろうな」

 こちらの質問には一切答える気配なく、ミズサキは聞くだけ聞いて冷たく切って捨てた。
 その間も車はイセの知らない道を滑るように走る。よく分からない威圧感に軽い胃痛を覚え始めた頃、三つ目の信号に引っかかって車はゆっくりと停車した。最初の質問以来、二人の間に会話はない。
 信号を睨むようにしていたミズサキの目がミラー越しに自分を睨んでいると気づいたとき、イセは直接隣を見たことを後悔した。呪い殺さんばかりの充血した目でこちらを見るミズサキと視線が絡み、背筋に冷たいものが落ちていく。

「艦長……?」
「…………俺には、娘がいる」

 ミズサキに年頃の娘がいるという話は以前ちらりと聞いたことがあった。妻には娘が生まれて間もない頃に先立たれ、以来男手ひとつで育ててきたのだと聞いている。
 しかし、その話をなぜ今、それもこれほど絞り出すような声音で話すのか、さっぱり意味が分からない。なにしろ今のミズサキの顔ときたら、“険しい”を通り越して地獄の釜で茹でられている真っ最中のようだった。
 信号が変わり、再び車はゆっくりと動き出す。どこへ向かうのかも分からないドライブはまだしばらく続きそうだった。

「十九の娘だ。亡き妻に似て、気立てがいい。料理もできる。家のことは幼い頃から一通りこなしてきた」
「それは……素晴らしいお嬢さんですね」
「ああ。そうだ。よくできた娘だ。お前にはもったいない」

 「それはそうでしょう」と返そうとしたイセだったが、ハンドルを握り締めるミズサキの手の甲に太い血管が浮かび上がっているのを見て、言葉を失った。今ここでなにも言うなと本能が警鐘を鳴らしている。そしてその警告は、どうやら従って正解だったらしい。

「どこへ向かうかと聞いたな」
「え、ええ……」
「家だ」
「家、ですか? ちなみに、どちらの……」
「俺の家だ」

 次の信号待ちの間にミズサキはホルダーにセットした携帯端末を操作し、どこかへコールしてしまった。数コール後、スピーカーから聞こえてきた若い女の声に困惑しながらも押し黙るイセに、思わぬ衝撃が走ったのは直後のことだ。

『お父さん? もしもし? あれ……、聞こえてる? もしもーし』
「……ズイホウ」
『もう。聞こえてるなら早くお返事してよ。今日の晩ご飯はお父さんの好きな煮浸しにしてるから、飲み会の連絡なら怒っちゃうからね』
「もうすぐつく。――お前の、見合い相手を連れて」

 端末の向こうで愛らしい声が「え?」と問いかけ、それに重ねるように助手席で目を剥いたイセが「は!?」と叫んだ。端末の向こうの存在も動揺し、言葉にならない声を漏らしている。
 そんな二人の若者のことなど知ったことかとばかりにミズサキは通話を切り、一際強くアクセルを踏み込んだ。法定速度を僅かに超えた速度で車は進む。
 思いもよらぬ事態と共に。




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