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*2013年9月お手紙企画配布作品


空の悪魔


 どこまでも広がる青の世界に、それはいた。
 雲海の上を、まるで泳ぐように滑っている。深緑に塗られた機体は、こちらの様子でも伺っているのか、低空をゆっくりと飛んでいた。
 どくどくと高鳴る心臓が、勝利を確信してさらに鼓動を速めた。
 空戦において、上空を制した者の方が有利になる。そんなことは常識だった。自分は今、「奴」の上にいる。機首を下げ、ロックオンしてしまえば、もう勝ったも同然だ。あとはボタン一つで勝利が得られる。
 マスクの下で乾く唇を舐めた。操縦桿を握る手に力が籠もる。
 ――さあ、ぴたりと背後につき、勝鬨を上げようじゃないか!
 興奮する気持ちを抑えきれぬまま操縦桿を僅かに倒したそのとき、視界から「奴」が消えた。

「なっ……、どこに、」

 困惑が眠っていた恐怖を一瞬で揺り起こし、生まれた焦りが甲高い産声を上げる。
 必死に目を凝らして空の中を探すと、猛スピードで垂直に上昇する「奴」の機体が見えた。
 ――まずい。このままでは背後に回り込まれる。そんなこと、あってたまるか。
 唇を噛み締め、衝動のままに操縦桿を勢いよく引き起こした。一瞬にして凄まじいGが生じ、身体がぐっとシートに押し付けられる。息が詰まる。血が頭に昇る。肺が押し潰されそうだ。全身があちこちで悲鳴を上げている。
 「奴」はどこだ。どこに行った。まだ上にいるのか。レーダーを確認しようと目をモニターに移した瞬間、けたたましくアラートが鳴り響く。
 背後からのロックオン。ボタン一つでこの機体を吹き飛ばすことのできる状況に、ありえないほど鼓動が速くなった。
 まだだ、まだ、負けていない。どうする。どう切り抜ける。旋回だ。とにかく、ロックを外さなければ。
 空の上に隠れる場所などない。けれど、逃げ回る場所ならいくらでもある。高度、速度共に急上昇させて振り切れば、あるいは――……。

 今思えば、あのアラートは文字通り警告だったのだ。空の上では、冷静さを欠いた方が負けなのだと、どうしてあのとき気づかなかったのだろう。恐怖に囚われ、焦りを生んだ時点で自分の負けは確定していた。
 あの空で、「奴」を相手に敵うはずもなかった。

 ぐっと握り込んだ操縦桿が、最後の警告とばかりに重さを増した。それでも構わずに引き起こす。ブレイクして、なんとか振り切らなければ。行き場を失った血液の沸く音を、耳の奥で聞いた。
 ――ボンッ!
 文字にすれば、それはなんと陳腐なことだろう。この耳に届いたあの音は、なによりも恐ろしいものだった。それは機体の悲鳴であり、悪魔の嘲笑でもあった。

『警告。右翼内部より発火。ただちに帰投せよ。警告。右翼内部より発火。ただちに帰投せよ』

 感情の籠もっていない女性の声が、自動的にスピーカーから放たれる。無線から聞こえてきた上官の叱責に、自分はどう応えたのだろう。
 青と白の世界に、右翼から噴き上げる炎と黒煙がいびつな線を引く。
 その向こうで、深緑の機体がじっとこちらを見つめていた。


* * *



 編隊飛行訓練から戻ったキリシマは、基地内に鳴り響くサイレンに気づき、つい先ほどまで飛んでいた空を仰ぎ見た。澄み渡った青空は穏やかで、なにかあったようには思えない。消防班が慌てて放水車を走らせていたから、どうやら火災が発生したようだった。

「またオーバーヒートだってよ。キリシマ、お前、次の模擬戦相手ってあいつだろ?」

 汗を拭いつつ声をかけてきた同期の友人が、 放水車の走る方を眺めながら問うてきた。彼の言う「あいつ」が誰を指しているのか一瞬理解できず、訓練スケジュールを脳裏に思い浮かべる。そうしてようやく合点がいった「あいつ」の名前に、キリシマは「ああ、」と頷いた。
 小さな影が記憶の端に浮かんでいる。

「うん。明後日だったはず」
「この時期に災難だな、お前。今月でいったい何機目だよ、あいつと飛んで火ィ噴いたの……」

 それはキリシマへの警告というよりも、ほとんど独り言だった。なので、キリシマも適当に生返事を返すだけに留める。
 再び見上げた空はやはり穏やかで、なにかトラブルがあったとは到底思えないほどに、鮮やかな青を大地に見せびらかしている。
眩しいくらいに白い雲が、そこにいくつか浮かんでいた。

「『悪魔』と当たるなんて、ほんっとついてねぇな、キリシマ。気をつけろよ」

 肩を叩いて去っていった友人の後姿を見送って、キリシマは首を傾げた。
 ――悪魔?
 噂はもちろん聞いている。テールベルト空軍学校に在籍する者ならば、その話を知らない者はいない。今年入学してきたばかりの、若干十八歳という若さながらも、目を瞠る飛行技術を持ったあの少年。彼のことを知らない者が、この空軍学校基地内に存在するはずがない。
 美しいと評するに相応しい、圧倒的なまでの空戦技術。同じ練習機に乗っているはずなのに、スピードが違う。機動力が違う。どうしてあの速さを出せる。どうしてあれだけ動ける。誰もが口を揃えてそう言った。
 低速で上昇中の彼を追えば、一瞬で背後に回られて捉えられる。追えども追えども追いつかない。気がつけば視界から消え、一呼吸分にも満たない間に機内にアラートが鳴り響き、後ろ頭に銃口を突きつけられたのだと知る。
 今年になってから、飛行樹がオーバーヒートを起こして空中火災が発生したケースが後を絶たない。それは、彼を無理に振り切ろうとしたり、躍起になって深追いすることが原因だった。


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