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*前途多難 その日、カサギは浴びるように酒を飲んでいた。古くからの友人にぐだぐだとくだを巻き、大ジョッキを一気に空にする。
相手も慣れたもので、カサギの愚痴など「はいはい」と右から左へ聞き流し、黄緑色のみずみずしいキャベツでマヨネーズをたっぷりとすくって食べていた。
「マジ信じらんねー、あの女」
喉を通したビールが胃に落ちる。「はいはい」という適当な相槌に、腹が立った。
「聞いてんのかよ!」
「聞いてる聞いてる。昇任おめでとう、カサギ一曹。今日はそのお祝いで飲んでるつもりだったんだが、なのにどうしてお前がぐだぐだしてんのか、その理由もよーく分かってる。心配すんな」
淡々と述べられた嫌みに、カサギはうっと言葉を詰まらせた。
真新しい階級章を手に、だらしなく机に頬をつける。目の前に食べかすが転がっているが、そんなことを気にするほど繊細でもない。
祝い酒だったはずのビールは、いつもよりも苦かった。
「……マジ信じらんねー、あの女」
苛立ちを隠しきれずに零した台詞に、医者の道を進む友人は淡泊に「はいはい」と返した。
* * * テールベルト空軍のヴェルデ基地内の廊下を、カサギは全力で走っていた。切るのが面倒で伸ばしっぱなしの髪を揺らし、擦れ違う同僚に怒鳴られつつも、全力で足を動かしていた。
今日ばかりはおざなりの挨拶でも、上官も見て見ぬふりをしてくれるらしい。話の分かる人間ばかりで助かった。
弾む胸はまるで十代の頃のようだ。これくらいの全力疾走で息が切れるほど体力がないわけではないが、今日ばかりは興奮で呼吸が速くなる。
やっと足を止めたその先に、凛とした後ろ姿があった。
施設内の隅に追いやられた喫煙場所は屋外で、屋根はあるが雨風を凌ぐには頼りない。申し訳程度に作られた自動販売機には、つい最近、新商品のドリンクが入ったはずだ。
ベンチもなにもない、男五人もいれば息苦しくなるだろうその空間に、地味な作業服姿の女性がぷかぷかと煙草を吹かしていた。
乾いた口を唾液で潤し、貼りつきそうになっていた舌を救う。呼吸を整えて一歩踏み出せば、彼女はなにかに気づいたように振り返った。
「……あ」
にやりとした笑顔が、きた。
手招きされ、ぐっと顔の緩みを押さえて外に出る。ドアを押し開けた途端、彼女の吸っている煙草のにおいが流れてきた。
「走ってきたのか?」
「あ、いえ、別に……」
「じゃあ寝癖か? 髪の毛、すごいことになってる」
慌てて頭に手をやれば、伸びてきた手にすかさず頭を掻き回された。わしゃわしゃと犬にでもするかのようなそれに、抗議の意味も込めて睨み上げる。
すると、彼女は煙草を灰皿に押しつけ、にんまりと笑った。
「おめでとう、カサギ一曹」
まだなにも言ってない。
だのに確信を持って告げられたそれに、この上なく心臓が跳ねた。もしかしたら、始めての実戦のときよりも。
「な、なんで、結果……」
「そんな目ぇきらっきらさせてたら、うまくいったに決まってんだろ。あたしが教えたんだし、落っこちるはずない」
だってあんただし。
細い指が髪を梳いていく感触が、とても気持ちいい。
先日行われた昇任試験は、カサギにとって苦難の道だった。そもそも勉強など学生時代からろくにしたことがなく、これ以上頭になにかを叩き込むのが嫌でテールベルト軍に志願したほどだ。医者の友人には「空軍志願でバカってありえないだろ」などと暴言を吐かれたが、なにも空を飛ぶだけが空軍の仕事ではない。
これまではなんとかやってこられた。だが、昇任試験ともなれば話は別だ。それこそ「アホほど」知識を詰め込み、紙に書き込んだりシミュレーター相手に戦ったり、実際機に搭乗したりと、頭と身体をフルに使わなければならない。
実技試験の心配はしていなかった。机上での高度計算も座標特定も大の苦手だが、いざとなれば身体が勝手に動いてくれる。
問題は、筆記試験だった。
筆記試験に躓き、カサギはこれで三回目の昇任試験だった。男のプライド的にも、次こそはという思いが強かった。思いが強すぎて空回りしていることが明白になり始めた頃、直属の上官に紹介されて出会ったのが彼女――ヒヨウ二尉だった。
『みっちり鍛えてあげるから、覚悟しとけよ』
化粧もしてないのに、目力がすごかった。
笑うだけ笑って頭を小突いていったヒヨウ二尉は、あの有名なハルナ二尉やスズヤ二尉と同期らしい。
だが、思い出話など聞いている余裕は皆無だった。次の日から訓練が終われば、彼女は鬼のような厳しさでカサギの指導にあたったのだ。定規で背を打たれることなど日常茶飯事で、毎日何本もの赤い痣をこさえ、ようやっと本数が減ってきたのは試験間近。
男のプライドをズタズタに切り裂くヒヨウに最初はいい感情など持てるはずもなかったのに、いつの間にか、その真摯さに惹かれていた。
二ヶ月の猛勉強の甲斐あって、本日付けでカサギは一曹の階級に就くことができたのである。