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 同じようにその場に屈んで肩に手を置いてやれば、今にも深淵に引きずり込まれそうな虚無の瞳と目が合った。どこを見ているのかよく分からない瞳と目が合うとは、なんとも奇妙なことだと思っていた矢先――ヒヨウの後ろ首に、凄まじい勢いで熱が触れた。
 それがカサギの手だと自覚する前に、身体が傾く。前のめりに転びそうになったところ、しっかりと肩を支えられて急に視界が翳った。コンクリートに打ち付けた膝がじんと痛む。
 ほんの一瞬だ。たった数秒で、呼吸がままならなくなった。唇に柔らかいものが触れて離れ、額に額が重なり合う。焦点が合わないほど近くから睨みつけてくる双眸は、ぐつりと沸き立つマグマのように激しさを帯びている。

「もういい、遠慮なんざしねぇ。バカにすんのも大概にしやがれ、クソ女。――あんた、これ嫌か。不快か」

 あまりの物言いに、頭が考えることを放棄する。
 身体はいつの間にかカサギに抱き締められ、身じろぐことすら難しい。互いの呼吸が溶けあう距離が落ち着かず、ヒヨウは居心地の悪さを覚えて瞼を伏せた。それを舌打ち一つでこじ開けられ、ままならなさに委縮する。

「……い、いや? 不快じゃない、けど」
「じゃあもういい、もうなんも考えんな。俺と付き合え」

 低く放たれた一言に、今度はぎょっと目を剥いた。
 怒っている。カサギの言葉の端々、そして抱き締める腕の強さ、視線から、怒りがひしひしと伝わってくる。これは本来、殺気にも似た怒気にまみれて放たれる台詞ではないはずだ。
 指導中、こんなもの覚えられるはずがないとピィピィ言っていた後輩はどこにいった。これがあのカサギと同一人物なのだろうか。これでは、――これでは、男そのものだ。
 
「おっ、お前、一曹のくせに偉そうだぞ!」
「半年以上かけても答えの出せない判断力の乏しい二尉に、偉そうだなんだととやかく言われる筋合いありません」
「ぐっ……」
「ほら、返事。今度のは二択じゃないんだ、判断力の乏しい二尉でも簡単でしょうが」

 顎を掴まれ、仰向かされる。カサギの向こうに、汚れた天井が見えた。
 こんな状況は想像したことがない。男性経験がないわけではないけれど、こんな風に感情をぶつけられたことはなかった。年齢も階級も下のカサギは、生意気にもヒヨウに命令してくる。
 生意気だ。本当に生意気だ。
 落ち着かなくて、鼓動が早まる。

「返事って、なんて……?」
「俺が付き合えって言ったら、『分かった』の一言でいい」
「わ、分かった」
「よし」
「ちょっ、待て! 違う、違うぞ、今の『分かった』はそうじゃなくてっ、」
「うるさい黙れもう遠慮しねぇっつった!」

 あまりの気迫に反射的に答えれば、なかなか理不尽なことを叫ばれたような気がする。
 強引に口づけられ、何度も唇を合わせるうちに熱い舌が潜り込んできた。弾む呼吸の中、絡まり合った舌先が甘く感じて身体から力が抜ける。
 非喫煙者の舌は、喫煙者には甘く感じるのだと聞いたことがある。それはこれか。――ああ、本当に甘い。熱くて、甘くて、頭が砂糖を煮詰めたように溶けそうだ。
 首筋をなぞる指先が、背骨を通って腰に触れた。厚い軍服の生地越しだからさほど刺激はないが、それでもくすぐったさを感じて肌が粟立つ。
 やっと唇が解放された頃、カサギは両手でヒヨウの顔をしっかりと挟み、上から覗き込んできた。その唇が濡れている。瞳はいつになく鋭く光っていて、誰か知らない人のようだった。

「――俺と付き合え」

 こんな薄汚れた喫煙所で、自分達はいったいなにをしているのだろう。雰囲気にこだわるような性格ではないから別に構わないが、それにしたってもう少し他にやりようはなかったのだろうか。
 スズヤとハルナにはなんと報告しよう。あの二人はなんと言うだろう。どういう結果になったところで、あの二人がヒヨウの味方でいることには変わりがない。
 ヒヨウの目元を親指でなぞりながら、カサギは低く言った。「返事は」これではどちらが上官か分からない。さあ、どう答えよう。また三日待ってもらおうか。
 そう思ったのに、言葉は勝手に滑り出ていた。

「……わ、分かった」

 その瞬間に間近で見た幸せそうなカサギの笑みに、ヒヨウはやっと、己の判断の正しさを理解したのだった。




*おまけ*


【飲み会後】

スズヤ
「いやー、あのヒヨウがねぇ……。ハルちゃん、見た? あの顔。嬉しそうにしちゃってさー」
ハルナ
「分からないと言いつつ、あれではもう答えも決まっているだろうに。なんでわざわざ俺達に聞きに来るんだか」
「ハルちゃんと一緒で鈍感だからね、あいつ。自分の気持ちも分かってないんだよ。てゆーか、あれで恋に悩んでるとか、きっとおれ達以外には分からないって」
「そういうものか?」
「そういうもの。あー、でも、明日にはヒヨウも人のものになるのかー。なんかヘンな感じ」
「少し寂しい気もするが、あいつが幸せならそれでいい」
「まーねー。てか、カサギ一曹じゃないとヒヨウの奴、この先絶対結婚とかできないから。あそこまで駄目っぷり見せててそれでも好きだって言ってくれる希少種、そういないから」
「それもそうだな」
「そうそう。――で。残る一人身はハルちゃんだけになるけど、彼氏彼女のご予定は?」
「やっ、やかましい!! あと彼氏ってなんだ、彼氏って!!」


(2014.0727)


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