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 銀のトレイを床に投げ出し、こちらに向かって石を投げていた犯人を目で捕捉する。相手は二人。もうすでに走り出しているから、距離にして約五十メートルと少しといったところか。赤いミュールの靴底が散ったガラスを踏み、ざり、と音を立てた。
 この距離なら追いつく。滑らないよう注意しながらも駆け出したワカバの背に、同級生達の困惑の声が投げられる。だが、そんなものはほとんど耳に入っていなかった。
 お気に入りのワンピース、それもよりにもよって総レースのワンピースに、ガラスのシャワーとはどういう了見だ。僅かにひりつく腕には赤い筋が走っていて、そこから垂れた血がスカートの裾を汚していた。血はクリーニングに出しても落ちにくいのにどうしてくれる。
 なにがなんでもひっ捕らえるつもりで風を切っていたワカバのすぐ脇を、黒い影が追い抜いていく。その瞬間、甘く蠱惑的な花の香りが辺りに漂った。

「え……」

 ワカバを追い抜いたその影は、一足先に犯人を捕らえて地面へと組み敷いた。薙ぎ倒された少年が「離せよ!」と喚く。

「もう一人を!」
「あっ、――はい!」

 命じる声に従ったのは反射だ。止めかけていた足を再び動かし、逃げを打つもう一人の少年を追う。追ってくるのが長躯のヴァハトではなくワカバということに、相手は明らかな安堵の表情を浮かべた。この足では追いつけないとでも思っているのだろうか。
 カフェから離れ、わざと人通りの多い大通りを目指して走る少年は、ワカバと同じか少し上くらいの年頃だろう。足には自信があるのかもしれないが、そんなものはたかが知れている。
 ヒールの高いミュールということが少し心配だったが、それでもこのくらいは許容範囲だ。ある程度の距離を詰め、ワカバは人知れず口角を持ち上げた。
 地面を蹴り、高く飛び上がってガードレールを踏み越え、その勢いのまま少年の背に膝から飛びかかる。前のめりに倒れ込んだ少年の肩を膝で踏んで動きを固め、もがく両手を後ろ手に拘束して耳元で囁いた。

「逃げ切れるとでも思った? ――軍人舐めんな」

 丈の短いワンピースから生白い太腿が覗いているということに、このときのワカバはまだ気がついていなかった。
 未だに抵抗を続ける少年の関節でも外してやろうかと半ば本気で思い始めたとき、野次馬の波を掻き分けてやってきたヴァハトとオウカの姿を見つけ、すっかり「空学生」の気分のままに声を張った。

「1542、標的確保いたしました!」

 ぱちくりと目をしばたたかせたオウカが、どこか呆れたように肩を竦める。

「ワカバ二士、スカート」
「え? わっ、やだ!」

 捲れ上がったスカートの裾を直そうと手を離した瞬間、馬乗りになっていた少年が体格差を利用して跳ね起きた。転げ落とされそうになった矢先、オウカの腕が伸びてきてワカバを支える。少年はといえば、次の瞬間にはもうすでにヴァハトの腕の中で苦しげに呻いていた。この手並の鮮やかさ、さすがはテロや強盗対策用の護身術講習を受けているフローリストだ。
 感心しきりのワカバの前でヴァハトは暴れる少年を拘束し、カフェの前まで引きずっていく。すでに警察は呼んでいるらしい。ぼんやりとその光景を眺めていたワカバの腕に、オウカの手がそっと触れてきた。途端に走った痛みに小さく呻けば、「まったくもう」と小言が漏らされる。

「貴女、見かけによらず無茶するのね。せっかくの綺麗な肌が傷だらけ。手当てしてあげるから来なさい。カフェの人が救急箱を貸してくれたから」
「えっと、すみません……」
「謝らなくていい。貴女はよくやったもの。それにしても、足が速いのね。ヴァハトについていける女の子、初めて見たわ。しかもそんな靴で」

 一瞬にして擦り傷だらけになってしまったミュールは、もうデートには履いていけないだろう。ワンピースといい靴といい、とんだトラブルのせいで買い直しだ。
 カフェの控室でオウカの手当てを受ける間、石を投げてガラスを割った少年達の喚き声を聞いていた。ほんの悪戯のつもりだった。そこまで悪いことはしていない、なんでここまでされなきゃならない。地面に引き倒されてできた傷を差し、彼らは傷害罪で訴えてやると叫んだ。
 冗談じゃない。ぐつりと沸き上がった怒りのままに彼らのいる隣の部屋を睨むのと同時、雷鳴のような怒声が轟いた。

「黙れ!」

 ワカバでさえ一瞬身体が浮き上がるほどの衝撃を覚えたそれは、間違いなくヴァハトのものだ。思わずオウカを見れば、彼女は小さく溜息を吐いて首を振る。

「怪我なんかしてないって言ってるのに、本当に大人げない……」

 どれだけ絞られたのか、少年達は竦み上がった状態で警察に引き渡されていった。人前だというのにオウカの顔や身体をくまなく触って「怪我はないか」と目を細めるヴァハトは、彼女の言うように少し「大人げない」のかもしれない。


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