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 奏なら、あの生徒を助けようとしただろうか。助けてくれた男子生徒を置いてきた。奏なら、彼も連れて一緒に逃げただろうか。奏なら。ぐっと歯を食いしばり、穂香はかぶりを振った。自分は奏じゃない。自分が助かることしか考えられない。それがどんなに、酷いことだとしても。

 ――たすけて。お願い、誰か助けて。

 一歩進むのも怖い。もう廊下には人の気配は感じられなかった。特別教室ばかりが集まる東校舎はもともと人口密度が低いため、ほとんどの生徒は近くの教室に逃げ込みきったらしい。そのあちこちで悲鳴が上がり、そのたびに穂香は耳を塞ぎながら身を竦めた。誰かが逃げ出そうとしたのか、扉が大きくガタガタと揺れ、悲鳴と共に静かになる教室もあった。
 このままこの廊下にいれば、外に出てきた感染者に見つかってしまう。巡らせた視線の先に、薄暗い下り階段があった。ここを降りれば更衣室に辿り着く。あそこなら、もう誰もいないかもしれない。座り込みたい衝動をこらえ、なんとか足を動かした。

 扉を開けるその瞬間が、かつてない恐怖と緊張を穂香にもたらした。がくがくと安定しない手で薬銃を構え、恐る恐る中に足を踏み入れる。三十人ほどが一斉に着替えることができるその部屋は、がらんとしていて人気(ひとけ)がなかった。今はそれだけでほっとする。
 穂香が先ほど使ったロッカーは幸い誰も使用していなかったらしく、開けてみると、上の棚に財布だけがぽつんと置いてけぼりを食らっていた。人一人がゆうに入れる大きさのロッカーに、ごくりと喉が鳴る。
 アカギ達が来るまで、ここにいれば。この中にいれば、助かるのではないだろうか。見たところ、感染者は知能が著しく低下しているように感じられた。ロッカーを一つ一つ開けて確かめるような真似をするとも思えないし――それはほとんど願望でしかなかったのだが――、仮に開けられたとしても、すぐさまこの薬銃で撃ってしまえばいい。その隙に逃げ出せば、助かる可能性はある。
 ロッカーの中に入って、扉を閉めた。途端に暗くなる視界に不安が増す。隙間から見る更衣室の景色はどこか不気味で、がちがちと歯の根が震えた。
 早く連絡しないと。アカギに電話しようと握り直した携帯が、突然訴えるように震えだして飛び上がりそうになる。画面に表示された「アカギさん」の文字に、こらえきれず嗚咽が零れた。



 助けてと縋った。
 助けるからそこにいろと怒鳴られた。男の人の怒鳴り声は怖いはずなのに、なぜか安心した。大丈夫、彼らは必ず来てくれる。もうこの学校内にいると言っていた。屋上から更衣室までは距離があるが、彼らの足ではあっという間だろう。
 もう少し。あと、もう少しだけ。きっと、大丈夫だから。
 しかし、つかの間の安息は近づいてきた足音によって乱される。跳ね上がった心臓に促され、冬だというのに汗が噴き出した。あの二人だろうか。きっとそうだ。そうに違いない。――そう思いたいのに、近づいてきた足音は随分と軽い。それも一人分だ。
 せめて感染者じゃなければ。携帯をポケットに押し戻し、両手で薬銃を握り締めた。
 更衣室の扉が開く。誰かが中に入ってきた。ぱたり、ぱたり。一番大きく聞こえる鼓動の向こうで、控えめな足音が聞こえた。隙間から見える風景に、深緑色の制服が入り込んできた。上げそうになる悲鳴を押し殺す。よく見えないが、相手はなにかを探しているようだった。穂香には背を向けた状態で、きょろきょろと頭を動かしている。
 いっそこのまま死んでしまいたい。痛みも苦しみも、恐怖すら感じずに。そうすることができれば、どれほど楽なのだろう。

「……ほのちゃん? ほのちゃんやろ? 大丈夫? どこ?」

 聞き慣れた声に、強張っていた身体がびくりと跳ねた。
 信じられない思いで隙間を覗き込む。ぴたりと目をつけて覗いた先にいたのは、確かに郁だった。目の焦点は合っているし、言葉もはっきりしている。肌に葉脈も浮いていない。
 正常だ。そう判断した途端、一気に安堵感が押し寄せてきた。砕けた膝が狭いロッカーを叩く。「うわっ」と声を上げた郁が、転がるようにロッカーの中から出てきた穂香を見て満面の笑みを浮かべた。

「よかった、やっぱりここにおったんやね! ほんまよかった……。ほのちゃんまでおかしなってたらどうしようかと思った」
「郁ちゃんも無事でよかった。他のみんなは?」
「分からん。先生に言われて教室におったら、急に古本が暴れ出して……。止めに入った先生までおかしくなって、それで逃げてきたんよ。ここに来るまでもなんかそんな人ばっかやったし、みんな入口塞ぐようにバリケード作ってるし……。もうなんなん!?」
「わ、私にも、分からない……」

 咄嗟に嘘をついた。本当は白の植物が原因だと知っていたが、それを郁に話したところで信じてもらえるか分からなかったし、自分までおかしくなったと思われるのは嫌だった。
 郁は、滲んだ涙を隠すように俯いて目元を拭う。怖いだろうに、気丈に振るまうことができる強さが羨ましい。

「あ、あのね、郁ちゃん。ここにいれば、もうすぐ助けが来るから」
「ほんまに!? はぁああ、よかったぁ! ここなら窓塞がれてないし、警察も入ってこれるもんね。ほのちゃんナイス!」

 勢いよく抱き着かれて支えきれずにその場に座り込んだが、構うことなく郁はぎゅうぎゅうと締めつけてきてちっとも離れる気配を見せない。もともとスキンシップが大好きな郁だったが、さすがにこれは息苦しい。「い、郁ちゃん」控えめに声をかけると、よほど嬉しいのか、郁は穂香の首筋に顔を摺り寄せてきた。
 力が強くなる。ミシッと骨の軋む音が自分の中から聞こえて、痛みに顔が歪んだ。

「ね、ねえ、あの、ごめんね、ちょっと痛い……」
「――ほのちゃん、なんか香水つけてる?」
「え? つけてないけど、なんで?」
「んー、なんかな、ほのちゃん、めっちゃイイ匂いする……」

 くす、と笑みを含んだその声に、背筋が凍った。
 硬直する穂香から、ゆっくりと郁の上体が離れていく。うっとりと微笑む郁は同性から見てもぞっとするほどの色香を放ち、蒼白く変色した唇を、赤い舌でぺろりと舐めた。

「いく、ちゃん……? ねっ、ねえ、郁ちゃん、嘘だよね、ねえ、郁ちゃん!!」
「ふフッ、アハッ、アハハハハハハハハハハッ!」

 肌荒れを知らないその肌に、白い悪魔が手を伸ばす。


「いやぁああああああああああああああああああああッ!」


 ――喉が破れそうなほど叫んだこの声は、あの人達に届くだろうか。 


【14話*end】

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