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決意の欠片に雫落つ *15




 ――なにがなんでも守ってやる。
 聞こえたのは、あの人の声でした。


 あちこちで聞こえる感染者の咆哮に、アカギの背に冷たいものが滑り落ちた。すでに手元の端末は赤と白の光で埋め尽くされており、わざわざそれを見て感染者を探すまでもない状況に追い込まれている。探されているのはむしろ自分達の方だ。感染していない綺麗な身体を持つ、種を運ぶにふさわしい健康体。油断すれば襲われる。慎重に、けれど足早に校内を進んでいかなければならない。下手に音を立てれば気づかれ、たちまち取り囲まれてしまうだろう。
 穂香がいる場所まであともう少し。そんなときだった。
 ――絹を裂くような悲鳴が、アカギとナガトの鼓膜を貫いたのは。

「穂香!?」

 甲高い悲鳴を聞きつけて、感染者が背後から飛びかかってくる。走りざまに薬弾を撃ち込み蹴散らして、アカギは更衣室へと飛び込んだ。背中のぎりぎりに感染者の指先が触れ、それを阻んだナガトの放つ銃声がアカギの背を押す。
 この一歩がもどかしい。どうしてもっと大きく、もっと速く走れない。どうして、この背には翼が生えていない。そんな埒もないことを考えてしまうほど、今の自分には余裕がなかった。
 見えた人影に反射的に引き金を引きかけるも、それが穂香だと分かってブレーキがかかる。
 ――目にした光景に、心臓が凍るかと思った。

「ほのちゃん、無事!?」

 アカギの横をすり抜けたナガトが、穂香に覆い被さるそれを引き剥がした。
 仰向けに転がった少女の姿に、ぞっとする。
 固く閉じられた瞼の奥には、勝気そうな瞳があったはずだ。その顔も、健康的なきゅっと引き締まった足も、どれも見覚えがある。それがナガトに引き剥がされる寸前まで、穂香に覆い被さっていた。頬に白く浮いた葉脈は、もうすでに消え始めている。よく見れば、脇腹に薬弾が撃ち込まれた形跡があった。
 ナガトに抱き締められた穂香が、薬銃を握る手をだらりと垂らして震えていた。その目からは、とめどなく涙が溢れている。
 ――そうか。
 見事だ。素人の小娘に薬銃など持たせたところで、感染者を相手に自衛などできるはずもないと思い込んでいたが、彼女は見事にそれをやってのけたのだ。あの小さな銃で身を守った。褒めて然るべきだろう。彼女がそれを望んでいなくとも。
 閉めた更衣室の扉の向こうから、一時的に感染者の気配が消える。ナガトが感染者避けの効果を持つ薬剤を撒いたのだと、そのとき初めて気がついた。

「怖かったね、よく頑張ったね。もう大丈夫だよ、大丈夫。俺らがいるから。分かる? 大丈夫なんだよ、ほのちゃん」
「あ……」
「えらいね。ちゃんと自分のこと守れたね。ほのちゃんイイコ。よくやった」

 座り込む穂香をぎゅっと強く抱き締めて、ナガトの手が小さな頭を撫でる。ぼろぼろと流れる涙が、さらに量を増した。それでも声を押し殺すのは、恐怖からなのか、それとも罪悪感からなのか、アカギには分からない。
 ただ、倒れた少女を検分するアカギを滲んだ瞳で捉えた瞬間、穂香は耐えきれないと言わんばかりに嗚咽を零した。

「アカギ、ほのちゃん任せていい? 俺が誘導するから」
「あ、ああ。分かった。立てるか、穂香」

 震える手を引いて立たせたが、力の抜けた膝ではまともに歩けそうになかった。縋りついてくる腕にさえ力は入っておらず、この状況下で移動させるにはいささか不安が残る。
 走らせたところで足手まといになることは明白だ。

「――ナガト、俺の装備背負えるか」
「え? なんで」
「こいつはおぶっていく。その方が速い」
「なるほどね。いいよ、貸せ」

 軽装備で来たため、さほど動きを制限する量ではない。二人分の装備を背負ったナガトも、涼しい顔で前を行く。ガチガチと奥歯を鳴らす穂香に背を向けてしゃがみ、アカギは軽くて招いて促した。「でも……」この期に及んでそんなことをほざく口を、乱暴に針と糸で縫い付けてやりたい衝動に駆られる。
 絶え間なく流れる涙に、震える身体。「早くしろ」苛立ちを押さえて静かにそう急かせば、か細い腕が肩にそっと触れてきた。装備よりも遥かに軽く感じられる柔らかな身体が、背に預けられる。そのあまりの軽さに、こんなときだというのに笑いそうになった。
 更衣室を出れば、あちこちで感染者達の呻き声が漏れ聞こえてくる。ひっと息を呑んだ穂香の腕に力が籠もった。

「……よくやった」

 壁に張りついて進路の状況を確認するナガトから目を離さないまま、穂香にしか聞こえない程度の小声でアカギは言った。困惑に揺れる吐息が耳にかかる。

「ダチ相手じゃ怖かったろ。あいつは、お前が救ったんだ。――いいか、間違えんな。傷つけたんじゃねェ。助けたんだ。お前の、その手で」

 大きくなりかけた嗚咽を呑み込み、穂香は小刻みに震えながらアカギにしがみつく力を強くする。
 出会ってからずっと、彼女は泣いてばかりだ。あの夜も、彼女は怯えて泣いていた。笑顔などよりも、泣き顔の方がよほど多く見ている。いつもなにかに怯えている姿は自分には到底理解できないけれど、友人相手に発砲することの恐怖はアカギとて知っている。
 怖かったろう。いくら薬銃が金属製の銃とは異なるとはいえ、簡単に割り切れるものでもない。自衛を優先してしまったと思い込んでいる穂香にとっては、なおさらだ。

 ――泣くな、大丈夫だから。

 傷つけたのではなく、助けたのだ。早期の段階で薬弾を撃ち込めば、感染の進行を遅らせることができ、寄生状態になることを食い止めることができる。
 だから、間違えるな。
 ナガトとは違い、抱き締めてやることも頭を撫でてやることもできないが、アカギはそれだけ伝えてサインを待った。言いたいことが伝わったかどうかは分からない。自分の口下手は自覚している。感染者は音に敏感だ。背中で泣き声を必死で殺している穂香には助かる。
 唸り声と足音が駆け抜け、遠くで悲鳴が響き渡った。誰かが襲われたのだろう。助けてやりたいが、そんな余裕はない。数多くの感染者が、悲鳴に釣られて駆けていく。奏がこの場にいれば、「まるで映画みたいやな」とでも零しそうな光景だった。


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