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 柵に取りつけられた転落防止用のプラスチックの板の隙間から見えたグラウンドに、高笑いで踊るように走る男の姿があった。あまりのおぞましさに心臓が凍る。

「嘘でしょ……」

 穂香は、見た。
 狂ったように銃を振り回し笑う男が、グラウンド脇にあった花壇の花を楽しそうに引きちぎったのを。――男に引きちぎられた花が、白く、色を失ったのを。
 ――感染者。
 動きを鈍らせる脳に、その言葉がよぎる。どうしてここに。どうして、どうして。まさか自分を狙ってきたのだろうか。だとしたら、あの男が親となる核(コア)を宿しているのだろうか。だとすれば、あの男はただの感染者などではなく――……。

「寄生された、人……? や、やだっ、どうしよう……!」

 汚れたコンクリートの床を引っ掻くようにして手をつき、這いながら東校舎内へと逃げ込んだ。すでに校内全体がパニック状態になっている。震える足では立ち上がることもできない。廊下の隅で呼吸を荒げながら、穂香は必死で制服のポケットをまさぐって携帯電話を引っ張り出した。
 周りでは、混乱した生徒達がキャアキャアと悲鳴を上げながら逃げ惑う。警報が鳴り響き、切羽詰まった校内放送が流れた。

『緊急事態です、校内に不審者が侵入しました。生徒の皆さんは先生の指示に従い、安全な場所に避難してください! 落ち着いて、一刻も早く安全な場所に避難してください!』

 安全な場所などどこにあるのだろう。相手は銃を持っている。教室の薄い扉など、鍵をかけたところでなんの役にも立たないだろう。
 こういうとき、学校側は生徒に不安を与えないために暗号を使って不審者侵入の情報を伝達すると聞いたことがあるが、この状況では無意味だと判断したらしい。もしくはただパニックになっているだけなのか。
 走り抜けていく生徒達を見ながら、穂香は縋るように携帯を握って、震える手で電話帳を開いた。上手く操作できない。一番上に表示されていたアカギの名前に、涙が零れる。電話をかけようとボタンを押しかけたところで、再び発砲音が耳に届いた。

 ――逃げなきゃ。

 いつまでも廊下に座り込んでいてはすぐに捕まってしまう。言うことを聞かない足を叱咤して、壁を支えになんとか立ち上がる。生まれたての小鹿でももう少し様になっているだろう立ち姿で、なんとか逃げようと足を動かしたが、どこに逃げればいいのか分からない。
 安全な場所って、どこ。真っ先に思い浮かんだのは、あの潜水艦のような乗り物だ。アカギがいて、ナガトがいて、ハインケルとミーティアがいる。あそこが一番、安全なのに。
 どうしよう、どこに逃げよう。せめて彼らが助けに来てくれるまで。隠れなきゃ、逃げなきゃ。殺される。死にたくない。焦りの波に呑まれて溺れてしまいそうな感覚に、穂香は喘ぐように呼吸を繰り返した。

「あんたなにやってんだ、早く来い!」
「ひっ!」

 たった今横をすり抜けた見知らぬ男子生徒が踵を返して、穂香の腕を無理やり掴んで走り出した。突然の衝撃に耐え切れず、手の中から携帯が零れ落ちる。「あっ!」取りに走ろうともがいた瞬間、罵る勢いで叱責が飛んできた。

「そんなもんどうでもいいだろ! 今は逃げ――、」
「ダメ! あれがないと駄目なの! 離して!」
「なっ――、くっそ、分かったよ!」

 思いがけない穂香の剣幕に気圧されたのか、男子生徒は穂香の代わりに廊下を滑っていった携帯を回収し、再び腕を引いて走り出した。もつれる足を懸命に動かして、半ば引きずられるように教室に逃げ込む。後ろ手に乱暴に閉められた薄い扉に填まった擦りガラスが、ビィンと切なげに鳴いた。
 崩れ落ちるように座り込んだところで「大丈夫か」と声をかけられ、携帯を渡された。思わず大きな声を出してしまったけれど、変に思われなかっただろうか。こんなときだというのに、いつも通り、そんなくだらない心配事が頭をよぎった。
 でも、これがないとアカギ達に連絡を取ることができないのだ。彼らとの繋がりが絶えてしまうことは、今の状況では致命傷に等しい。
 礼を言いたいのに、カラカラに乾いた喉からは蚊の鳴くような声しか出なかった。途切れ途切れに「ありがとう」と言ってはみたが、彼に聞こえているかは分からない。
 逃げ込んだ教室は、よく見ると理科室だった。流し台のついた長机と丸椅子が並び、教室の端にはフラスコや人体模型が置かれている。そこには穂香達以外にも数人、生徒達が逃げ込んでいるようだった。十人にも満たないが、ほとんどが知り合いのような雰囲気だった。授業前ということもあって、移動してきていたのは全員ではなかったのだろう。
 誰も知らない。ネクタイの色から見ても、彼らは二年生らしい。涙を拭った穂香に気を遣ってか、先ほどの男子生徒が隣に座った。

「……映画みたいだよな」

 返事をする余裕などないので、とりあえず頷いておく。一刻も早くアカギに電話をかけたかった。しかし先ほど落とした拍子に電池パックが浮いていたのか、電源を入れ直すところからスタートだ。ほんの一、二分だというのに、それが一時間にも二時間にも感じる。
 隣の彼はなにか話し続けていたが、それは穂香を励ますというよりも自分を落ち着かせるために思えた。事実、穂香が返事をしなくても彼は気を悪くした風もなく話を続けている。
 やっと電源が入った。――これでアカギ達に助けを求めることができる!
 確かに、そう思ったのに。

「きゃああああ!」
「う、うわぁあああ!」

「え……、な、に……?」

 教室内で悲鳴が湧く。激しく椅子が倒れ、フラスコが割れ、人がもつれあうのが視界の端に映った。本能が激しく警鐘を鳴らす。ここにいてはいけない。映画やゲームでよくある、メキメキと植物の蔦が伸びていく音がした。
 一瞬の静寂。じりじりと後退していく生徒達。
 手が、ポケットの中に伸びていた。左手はしっかりと携帯を握り締めている。――穂香の右手が薬銃を握ると同時、最も聞きたくない音を、聞いた。

「ウ、ァアアア、ガァアアアアッ!!」
「なっ、なにこれ!? きゃああああ!」
「バケモノッ!」
「に、逃げろ、逃げろぉおお!」

 血走った白目、青白い肌に浮いた葉脈のような痣。吠える口から滴る唾液。
 人ではなくなった、ヒトの姿。

「い、やぁっ」

 どうして、どうしてここに、感染者が。
 溢れだした涙が視界を滲ませる。同じ制服を着た誰かが化け物になって、知らない誰かに襲いかかっている。そんな光景、見たくなかった。もがくように扉をスライドさせ、穂香は薬銃と携帯を持って脱兎のごとくその場から逃げ出した。


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